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日本古典文学基礎演習B  上原作和先生

発表者 99001114  穂積 純子

99001124  三留 真貴子

99001134  山本 奈穂子

源氏物語

『源典侍』について

1.ないしについて

a.内侍とは、後宮の役所、常時、奏請、伝宣等を掌る内侍司の女官の総称です。尚侍(ないしのかみ)二人、典侍(ないしのすけ)二人、掌侍(ないしのじょう)四人、他に権掌侍(ごんのないしじょう)二人がいます。 他に斎宮寮の女官、厳島神社に奉仕する巫女等の意味があります。

     内侍、宣旨承り伝へて、おとど参り給ふべき召しあれば、参り給ふ。<桐壷>

  この文章のように多くの場合掌侍を指します。ここにある宣旨とは、内侍宣というもので、「勾当(こうとう)」の女官、つまり掌侍が勅旨を伝えるために出した文書です。天皇の命令は、口頭で伝える体裁がとられていました。内侍宣は蔵人がおかれてからは、蔵人頭が取り扱いました。

b.内侍所とは、禁中の温明殿の賢所の別称です。三種の神器の一つである八咫の神鏡を祭っていて、内侍が奉仕しています。

     内侍所にも事多かる頃にて、女官ども内侍ども参りつつ<真木柱>

c.尚侍とは、内侍司の長官です。略して「かんのきみ」「かんのとの」ともいいます。仕事の内容は、『後宮職員令』に「掌供奉、常時、奏請、宣伝、検校女孺、兼知内外命婦朝参、及禁内礼式事。(供奉、常時、奉請、宣伝を掌り、女孺を検校し、兼ねて内外命婦の朝参を知り、及び禁内礼式の事を掌る。)」とあり、女子の官職中最も重んじられました。元従五位相当でありましたが、御寝所に伺候するようになって品位が上がり、後には大臣の女を尚侍とすることが多くなりました。

     みくしげ殿(朧月夜)は、二月に内侍のかみになり給ひぬ。<賢木>

d.典侍とは、内侍司の次官です。『後宮職員令』に「典侍四人、掌同尚侍、唯不得奏請宣伝、若無尚侍者、得奏請宣伝。(典侍四人、掌る事尚侍に同じ、唯奏請宣伝を得ず、若し尚侍なきときには、奏請宣伝を得。」とあり、女官の取り締まり、後宮の礼式を掌り、宝剣神爾を執り、禁色の服装を着、天皇の陪膳に伺候しました。禁色とは、皇族しか着ることが認められていない色で、青、赤、黄舟(きあか)、梔子(くちなし)、深蘇芳、深緋、深紫です。後に内侍が更衣のようになり、御寝所に侍るようになってからは、益要職となりました。元正六位でありましたが、内侍が従三位になったのに准じて、従四位となりました。

     上に侍ふ内侍のすけは、先帝の御時の人にて、かの宮にも親しう参りなれたりければ、<桐壷>

☆参考文献:『源氏物語事典』上巻 池田 亀鑑編 東京堂

2.源典侍の外見

a.顔・髪

  平安時代の女性の髪型は、『垂れ髪』と呼ばれるものであります。垂れ髪は耳や顔の一部を隠すところから、それぞれの顔の特色を蔽ってしまうきらいがあります。その為、基本的に男性とは扇や御簾ごしに会う、という習慣も手伝って、具体的な顔立ちよりも髪の長さ、美しさが重視されていたようです。もちろん、この時代にも化粧というものはありましたが、不特定多数の人に対するアピールという点から考えますと、男性に対して美しさを強調するというよりも病によってできたあばたを隠す為だった、という説があります。作中紅葉賀の項で源典侍の顔や髪の描写が少ないながらもありますが、これは美醜を表すというよりも、いくら乳児死亡率が高かったとはいえ当時の貴族女性の平均寿命が27、28才であった中で57才という、高齢でありました源典侍の年齢を際立たせる為ではないかと考えられます。

b.装束

  女房装束は公家女子の正装です。朝廷出仕の女官で部屋を与えられた高位の者の服装で、日常着に裳と唐衣を加えた服装のため、裳・唐衣ともいわれました。女房装束の構成は、紅の袴をはき、単の上に袿を数領襲ね、晴の行事の場合には砧で打ってつやを出した打衣を加え、さらにその上に美しい袿の表着を襲ね、腰に裳を着け唐衣を来て檜扇を持つ組み合わせです。

   <袿>垂領、広袖形式で身幅が広い着物。男子と違い女子の袿は身丈が裾を引くほどの長さです。

   <単>装束の下の肌着として用います。女子は下に袴をはく為に裾を長く仕立てます。

      ※袿と袴はほぼ同形でありますが、一番の大きな違いは裏地の有無です。

       その為、夏の暑い盛りには特に袿を意識して仕立てた単を数領かさねて着ました。これを単襲といいます。

   <打衣>正装の時表着のすぐ下に重ねて着るものの総称です。重袿の一番上の一枚を特に美麗にする為のものです。コルセットの様な役割を果たしました。砧で打って光沢を出しました。

   <唐衣>装束の一番上に着けた上半身だけの袷の短衣。形は特殊で前身は袖丈と等しくその間を縫いふさぎ、後身は前身の約三分の二で袖丈より短く、闕腋で袖幅は狭いです。襟を外に折り返して、脱ぎ垂れるように着用しました。

   <裳>長細い台形に裁った綾ないし羅の十幅を縫い綴じ扇形に仕立てたもの。裳の上部、後腰に当てる部分を大腰と呼び、それを二つ折りとしてその山を上にして綴じ、その両側から出し、前に廻して締めて結ぶ紐を小腰、そして同様に大腰の両側から出して後方に垂らして長く引く紐を引腰と呼びました。裳の主要部を裾と呼んでいますが、そこに祝日には蓮來思想から吉祥感を表した桐竹丈や海浜に松文様と鳥の文様などの海賦文を地摺や描き絵で表しました。

◇女房装束は朝廷内にある天皇の私的生活の場である後宮に仕える女房という仕事の性格上、公服でありながら私服的性格を持ったものであるといえます。その為作中で、「色気たっぷり」などといった表記が見受けられますが、仮にも公服である以上、これは露出度が高いとか、袿や単以外のものを纏っていた、などという意味ではないはずです。おそらく襲色目のことをさしていると思われます。

   <襲色目>平安時代になると、服に用いられる色が発達してきました。つまり、青赤黄白黒の様な基本色のみでは表し得ないところの、中間にある色によって、様々な感情表現、象徴的意味の表現を求めたのです。しかし、公家には当色や禁色なるものが存在します。そのため当色や禁色以外の自由に使える色の工夫、色彩の呼称を変えて用いる方法が採られました。染色によって名付けられた、蘇芳、支子、藍、橡(とち)などの色名や、中国からもたらされた糸偏の付いた文字を用いる純然たる色名の紫、緋、紅、緑、紺、縹(はなだ)などに、日本的な色名がこの頃から加わります。そしてさらに襲ねの色の創案であります。襲ね色目とは、平安時代衣服の日本化とともに生じた着装や仕立てかたの取り合わせをいいます。表地と裏地の色の対比と調和に美を求め、さらに幾重にも重ねた衣服の重なりの色の変化も工夫されました。これは、衣服の大ぶりな仕立て方によって初めて効果があるわけで、大陸風の衣服の日本化に応じた平安朝的な独特の着装法であります。

◇以上の点と、源典侍が若作りで派手であったこと、それからこの時代、装束と小物や調度品との調和を重んじたことを考え合わせると、源典侍の装束は、次のようなものであると推測されます。

@.紅葉賀(紅の袴、薔薇の単襲、打衣、蘇芳の表着、唐衣、裳)

当時、未婚の女性は葡萄(えび)染めの袴、既婚の女性は紅の袴をはいていました。源典侍の年齢を考えた場合、紅の方がふさわしいと思えましたので、紅の袴をはいてもらいました。

赤系の同系色を重ねたり、原色の対照色を組み合わせた方が派手とされた為、薔薇(紅・紫)を着せてみました。

A.葵(紅の袴、赤の単、松襲ね、打衣、紫の表着、唐衣、海賦文の裳)

松襲ねは、下から濃萌葱、萌葱、薄萌葱、薄蘇芳です。

☆参考文献:『服装からみた源氏物語』 文化出版局

『平安服飾大辞典』 講談社

『服装の歴史』 理論社

 

3.登場場面   

   ※源典侍の性格やしぐさの読み取れる部分を取り上げてあります。

a.紅葉賀

 ★この頃は、桐壷帝も年をとっていましたが、女性に対しての方面は未だに捨てられずにいたので、気のきいた女官が揃っていました。そんな中に源典侍は登場します。

<本文>年いたう老いたる典侍、人もやむごとなく心ばせあり、あてにおぼえ高くはありながら、いみじうあだめいたる心ざまにて、そなたには重からぬあるを、かうさだ過ぐるまでなどさしも乱るらむ、といぶかしくおぼえたまひければ、戯れ言いひふれてこころみたまふに、似げなくも思はざりける。

<訳>たいそうなと年かさの典侍で、人柄も並々でなく、才気があり、上品で人々の信望もありながら、ひどく好色な性分で、その道では軽々しい女がいる、それを、君は、こんなにいい年になるまで、なぜああもふしだらなのかと、好奇心をお持ちになったので、冗談言を言いかけてお試しになると、先方は、それを不似合いなこととも思わぬのであった。

<解釈>源典侍が初めて登場する場面です。男好きだということがわかります。そして彼女が年寄りだというところに滑稽さがあります。

 ★ここでは光源氏が源典侍にちょっかいを出したことから二人はやり取りを始めます。

<本文>「森の下草老ひぬれば」など書きすさびにあるを、言しもあれ、うたての心ばへや、と笑まれながら、「森こそ夏の、と見ゆめる」とて、何くれとのたまふも、似げなく、人や見つけん、と苦しきを、女はさも思ひたらず。…

<訳>「森の下草老ひぬれば」と書きちらしてあるのを、ほかに言葉もあろうに、とんでもない好みだなと、思わず笑みを浮かべながら、「『森こそ夏の』というわけですね」と、あれこれとおっしゃるのも、この二人では不似合いで、誰かが見つけはせぬかと、閉口しておいでなのだが、女の方はそんなことにはまるでおかないなく、…

<解釈>「森の下草老ひぬれば」とは、“老いを嘆く”の他に“男ひでりを嘆く”歌ともとれます。これだけ露骨な言葉を書けるのは、源典侍のようにあつかましい、なりふりかまわぬ年にならないとできないことであります。

  この後、光源氏はうまく言い訳をして逃げようとしますが、源典侍は光源氏を引き止めて恨み言を言い、しまいには泣き出してしまいます。そのため、光源氏は心にもない慰め言を言って去ります。さすがの光源氏も、恥も外聞も捨てている女には適当にあしらうことができないようであります。

 ★先ほどの光源氏と源典侍のやり取りを帝が偶然にも見てしまい、源典侍をひやかして

  いるところです。

<本文>典侍は、なままばゆけれど、憎からぬ人ゆゑは、濡れ衣をだに着まほしがるたぐひもあなればにや、いたうもあらがひきこえさせず。

<訳>典侍は、なんとなく気恥ずかしくはあるが、憎からぬ人のためなら、無実の濡れ衣をさえ着たがる人もあるという、その類なのか、むきになって弁解も申し上げない。

<解釈>並みの女性なら恥ずかしがって、否定したり、言い訳をするのでしょうが、源典侍は光源氏との仲を帝に仰せいただくのも、うその濡衣を着せられるのさえも嬉しいようであります。

 ★光源氏と源典侍とのうわさが広まり、それを頭中将が聞きつけて源典侍といい仲になったところです。

<本文>…かのつれなき人の御慰めに、と思いつれど、見まほしきは、限りありけるをとや。うたての好みや。

<訳>…あのつれないお方に代わる慰めにと思ったのだが、やはり逢いたいのは源氏の君お一人だけとか。たいした好みである。

<解釈>いい年をしたお婆さんであるのに、男により好みとして、しかも誰もが憧れる光源氏でなければいけないとは“たいした好み”だと、筆者も飽きれ驚き、笑う表現の「うたて」を使って書いています。また、ここではひたすら光源氏を想う、一途なところがあることが分かります。

 ★頭中将が、光源氏と源典侍の寝ている所へ乗り込み光源氏を驚かそうと暴れているところです。光源氏は屏風の後ろへ隠れています。

<本文>内侍は、ねびたれど、いたくよしばみなよびたる人の、さきざきもかやうにて心動かすをりをりありければ、ならひて、いみじく心あわたたしきにも、この君をいかにしきこえぬるかと、わびしさにふるふるふ、つと控へたり。

<訳>典侍は、年こそ取っているが、たいそう風流気のある色っぽい女で、これまでにもこんなことでうろたえた経験が何度かあったので、馴れていて、内心ひどく慌てていながらも、この者が源氏の君をどんな目にお合わせ申し上げてしまうのかと、心細さにぶるぶる震えながら、すっと中将をつかまえていた。

<解釈>並みの女性なら恥ずかしさに顔もあげられないでしょうに、さすが源典侍、何度か経験しているので馴れているというのです。しかし、相手が大事な光源氏とあって、心配して震えながらも、中将をつかまえています。ここに源典侍の一生懸命さが出ています。

b.葵

 ★光源氏の車が、他の物見車ではいれる場所がなく、困っている時に、場所をゆずろうといってきたのが源典侍でした。光源氏は相乗りをしているので、源内侍が心穏やかではない所です。

<本文>人とあひ乗りて簾をだに上げたまはぬを、心やましう思ふ人多かり。「一日の御ありさまのうるはしかりしに、今日うち乱れて歩きたまふかし。誰ならむ、乗り並ぶ人けしうはあらじや」と推しはかりきこゆ。「いとまどしからぬかざし争ひかな」とさうざうしく思せど、かやうにいと面なからぬ人、はた人あひ乗りたまへるにつつまれて、はかなき御いらへも心やすく聞こえんもまばゆしかし。

<訳>誰かと相乗りをして、簾さえもお上げにならないことを、心中おだやかでない気持ちの人が多いのである。「御禊の日のご様子はきちんとしておられたのに、今日はすっかりくつろいでのお出かけですこと。どなたであろうか、ごいっしょにお乗りになる人は変な人ではありますまいね」と、推し量り取り沙汰申し上げる。「張り合いがいのないかざし論争だな」と、ものたれなりない気がなさるが、この典侍ほどにあつかましくない人は、やはり、どなたかが一緒に乗っていらっしゃることに気がねをして、ちょっとしたご返事も気楽に申し上げるのはきっときまりが悪いにちがいないのである。

<解釈>光源氏のすげない態度に相変わらず恨み言を言い、さらに相乗りしている人物を推察し始めるというのはなんともあつかましいことであります。

c.朝顔

 ★光源氏が五の宮のところへ行き、そこで偶然源典侍と出会うところです。源典侍は尼となっています。

<本文>いとど昔思ひ出でつつ、古りがたくなまめかしきさまにもてなして、いたうすげみにたる口つき思ひやらるる声づかひの、さすがに、舌つきにてうちざれむとはなほ思へり。「言ひこしほどに」など聞こえかかるまばゆさよ。今しも来たる老のやうになど、ほほ笑まれたまふものから、ひきかへ、これもあはれなり。

<訳>いっそう昔を思い出し思い出しして、今も老人らしくなれないで、しっとりと情味を漂わせ品を作って、ひどくしなびた口元が思いやられる声づかいで、といっても、やはりろれつもあやしいくせに、まだあだめいて振る舞おうという気持ちでいる。「言ひこしほどに」などと声をかけてくるのは、全く見られたものではない。「今にわかに老人になったように」などと、つい笑いが浮かんでくるものの、考えてみれば、逆にこの女の身の上もしみじみと気の毒に感じられる。

<解釈>姿は枯れ果てながらも、依然として心はなまめいている様子が描かれています。光源氏は、若い頃はあまり目立っていなかった源典侍がいつまでも色めいた心を失わないまま、仏の弟子となった姿に時の残酷さを感じています。

 ☆参考文献:『源氏物語 一』・『源氏物語 二』小学館

       『源氏物語評釈』第二巻・『源氏物語評釈』第四巻 角川書店

4.源典侍の登場背景と登場意義

a.紅葉賀:宮中の朱雀院にて。源典侍が57〜58才のときです。

  懐妊中の藤壷のために試楽が催され、光源氏は青海波を舞い、その素晴らしさに桐壷帝は正三位を授けました。翌年、光源氏と藤壷の不義の子である後の冷泉帝が生まれ、その御子の誕生を喜ぶ帝を前にして、藤壷はおののきます。光源氏は紫上と過ごす日が多くなり、葵上とますます疎遠になります。その頃宮中には色めいた女官が多く、光源氏は源典侍に誘われて戯れているところを頭中将に見出されて、おどかされます。藤壷は中宮となり、光源氏は宰相となります。

   このような背景で源典侍は、生まれた皇子を帝自らの手で光源氏に抱き示す緊迫した場面や地位の向上という公的な重々しい場面の雰囲気を明るく軽快に戻す役割をしています。

b.葵:都大路にて。源典侍が61〜62才の時です。

  桐壷帝が譲位し、朱雀帝が即位して、光源氏の政敵の右大臣方の勢力が増します。六条御息所の姫君が新斎宮となり、六条御息所は光源氏の頼りない愛情に見切りを付けて伊勢下向を決意します。新斎院の女三宮の御禊の日、その行列に光源氏も加わり、葵上も六条御息所も見物に出かけました。雑踏の中で、両者の供人が車争いをし、六条御息所はひどい侮辱を受け、それを深くうらみました。葵祭の日、光源氏は紫上と同車で出かけ、その途上で女車に乗った源典侍と歌の贈答に戯れます。その後、葵上は懐妊しましたが、六条御息所の生霊に取り付かれて悩みます。やがて夕霧を出産しますが急の発作で息絶えました。光源氏は葵上への薄かった愛情を悔やみ、彼女を手厚く葬り喪に服します。

   このような背景で源典侍は女の争いや怨み、葵上の死などの重々しい場面の途中に登場し、一 時の明るさを感じさせる役割をしています。

c.朝顔:桃園の宮邸にて。源典侍が71〜72才の時です。

  桃園式部卿の宮が亡くなったので、その姫君は賀茂斎院をやめて故父宮のお邸である桃園宮に帰りました。前々から彼女に関心のあった光源氏は出かけていき、姫君と庭前に咲いている朝顔を話題として歌を贈答しましたが、うちとけてもらえませんでした。一方、二人のうわさがようやく世間のうわさになって、紫上の耳に入ると事情を聞かされていなかった紫上は嘆きます。光源氏は荒れた桃園邸で偶然にも、今は尼となって老醜をさらけ出している源典侍に会ったりします。ようやく姫君と会うことのできた光源氏は愛をほのめかしますが、一向に相手にされません。姫君は年来斎院であったために、仏に仕えることを怠った代わりに仏道に専念することを決めました。

   この頃桃園式部卿の宮の他にも太政大臣や藤壷宮も他界しており、この巻は基本的には旧世代の物語からの退場を述べる巻です。とうとう源典侍も物語の中から姿を消してしまいます。桐壷院の世界が濃厚にその影を落としていることになります。この時も源典侍は未だに好色さを失っておらず、光源氏と、そして恐らく読者にも源典侍の半分の年齢でなくなった藤壷宮をしみじみと思い出させ、世の無常を感じさせる役割をしています。

d.全体を通して

  源典侍は桐壷帝の愛人であり、後宮の重職に就き“源氏”であります。教養も深くすばらしい琵琶の奏者で、美しい声の持ち主です。有能な人物ではありますが、いろ好みで軽々しく年に似合わぬ身なりをしていて、若作りをしています。

   源典侍の役割はこの風雅典麗な世界に笑いを持ち込む人物で、場面を和ませる役割を果たしています。光源氏との恋においては、藤壷宮や朧月夜の君との禁忌違反性と同調しながらはるかに照らし返すものとなっています。源典侍には伊勢物語の九十九髪の老女の影響があるといわれています。

 ☆参考文献:『源氏物語必携U』秋山 虔 編 学燈社

       『新源氏物語必携』秋山 虔 編 学燈社

       『源氏物語ハンドブック』秋山 虔・渡辺 保・松岡 心平 編 新書館

(補足)九十九髪の老女について

  この老女は百才に一才足りない白髪の男恋しい心の染み付いた人で、何とかして情愛深い男にあえないものかと思っています。そしてある日、息子のおかげで在五中将(在原業平)が老女の元へ訪れます。その後、男が現れなかったので老女は男の家に行って、覗き見をしていました。その様子を男がちらりとみつけて、「百才に一切足りない白髪のあの人が私を恋慕っているらしい。そんな姿が幻となってみえる。」と歌を詠んで、家を出かけるのを見て、老女は急いで家に帰り、臥せっていました。男はさっき老女がしたように、人目につかぬ様立ったまま見ていると老女はため息をついて寝ようとして、「敷物のむしろの上に私の衣一枚だけを敷いて、今宵もまた恋しい人に会わないで一人寝するだけなのでしょうか。」と歌を詠んだのを男はかわいそうに思って、その夜は一緒に過ごしてやりました。

  源氏物語に影響を与えた点は、普通であったら好きな人を愛し好きになれない人を愛さないものなのに、在五中将は好きな人でも好きでない人に対しても、区別を現さない心を持っています。それは業平のすき者としてのありかたへの誉め言葉です。女性の心を傷付けぬ愛情深い業平の人柄を賞賛し、光源氏も業平のような人柄であることを強調する為に、紫式部は源典侍を源氏物語に登場させたのでしょう。

 ☆参考文献:鑑賞日本の古典4(伊勢物語・竹取物語・宇津保物語)

                    藤岡 忠美・野口 元大  小学館

5.感想

  源典侍は最初から最後まで好色な老女であるという設定ですが、ただそれだけであれば、光源氏が相手にしないと思います。好色な老女でも教養があり、有能な人だからこそ光源氏と対等にやり取りができたのです。昔は今よりも女性の立場が弱かったにもかかわらず、源典侍は源氏物語に登場する女性の中で最も好き勝手にしているように思えます。宮中に仕え、地位もある人なのになぜでしょう。あまりに自由奔放なので周りの人も放っておいたのでしょうか。

以上

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