放送大学教養学部「中古の日本文学」レポート集

1998前期   98.9.29 Up Dade

講義日程@4/21『源氏物語』の世界A5/19 文化史の中の『源氏物語』B6/02 絵画史の中の『源氏物語』C6/16 『源氏物語』と女性達D6/30 紫式部と『源氏物語』

講義概要 中古(平安時代)の文学について、各講師の授業計画に従って、作品講読などを中心にして、必要に応じて、その作品の文学史的な位置づけや内容の特質、また、作品を著した作家の評伝や活動などに話題が及ぶ。テキストは、授業内容に即して、教室で指示したり、あるいは講義資料を配付したりする。(講座主任・小町谷照彦客員教授)

追って数編増補します。

東京第2学習センター所属 961-045873-3 古池哲三

 

  1 源氏物語を読んでみた。

  1.1 源氏物語を読みたいと思ったためしがない。

 古文・漢文は昔から苦手でした。昔の人間と現代の人間ではまったく違う存在ではないのか。それが苦手な人間の自己正当化のせりふです。教えていただいた先生方の影響もあり、万葉集、枕草子は好きだけれども、源氏物語は私にとって「大作」に過ぎるように思っていました。文庫を手に取ってみてもどこから読み出せばよいのか、無知も手伝って、いつも意気消沈するばかりでした。

  1.2 授業で日本の代表作と知る。

 日本の歴史を作ってきた人物たちがたえず「源氏物語」を意識してきたということは驚きです。1000年もの間、日本の文学の最高傑作といわれつづけてきたもののステータスを感じました。池田亀鑑の『源氏物語入門』によれば、雲隠れの巻の実在もうわさされ議論されていたこと、それぞれの巻名が愛読者たちによって銘々されてきたものであるということなどが述べられていました。本当に「源氏物語」が読者の心をつかんでいたということが理解できました。

  1.3 家内と話し合う。

 家内は以前、現代語訳で源氏物語を通読したそうです。彼女にとって印象的であったのは末摘花でした。そこで電子版のテキストを使い本文と翻訳とを二人で読んでみました。

  2  末摘花

  2.1 醜い女

 渋谷訳を少し引用します。

 「まず第一に、座高が高くて、胴長にお見えなので、『やはりそうであったか』と、失望した。引き続いて、ああみっともないと見えるのは、鼻なのであった。ふと目がとまる。普賢菩薩の乗物と思われる。あきれて高く長くて、先の方がすこし垂れ下がって色づいていること、特に異様である。顔色は、雪も恥じるほど白くまっ青で、額の具合がとても広いうえに、それでも下ぶくれの容貌は、おおよそ驚く程の面長なのであろう。痩せ細っていらっしゃること、気の毒なくらい骨ばって、肩の骨など痛々しそうに着物の上から透けて見える。」とその容貌を詳細に記述する。しかし驚くのは現代にもそのまま通用するような見事な不細工ぶりでしょうか。口の悪い友人たちが不細工な女の子達を「平安美人」などといっていたのですが、これは大きなあやまりであると知りました。女性に対する視線は1000年の時を超えて共通しているのですね。感覚が変化していない、共通しているとおもえるのはここだけではなくさらに、源氏の視線はファッションの趣味に及び、その表情の作り方までに至っている。

  2.2 源氏の動機

 夕顔に代る優しい女性を求めていた光源氏は頭中将と競ってというのがどうも動機であると学研の「源氏物語」を読むとおもえてきます。ひょっとすると本人は女性の顔のことは考えていなかったのかもしれないと思います。夕顔を失った源氏にとっては女性とはそのやさしさがシンボルになっていたのかもしれないと察します。さて、あらためてその末摘花の容貌はすでに引用したとおりなのですが、このような事件を単に笑い事として済ませることのできない話を現在でもよく耳にするのではないでしょうか。朝、目が覚めると隣に寝ている彼女の眉は掻き消えており、その顔色は青ざめ、大きないびきを立てている。などという状況は他人事ではないでしょう。

  2.3 容姿と気立て

 ブス・デブが現代の容姿の決定要素であることは一般的にいえることだろうと思われます。この決定要素がほぼ同じ形で「源氏物語」のなかに語られているというのは驚きではないでしょうか。西洋化してしまったと思っていた日本なのに美醜に関する感覚が受け継がれているとは……。しかし、「蓬生」によれば末摘花の真情を知った源氏は彼女を庇護するという。生活が困窮していく中でかたくなに男性を待つ姿が女性の美徳といわれることも現代に共通することではないでしょうか。むしろこの末摘花の一連のストーリで語られている女性のように生きる人間像に強く惹かれるのです。なぜなら、現代が源氏の時代とは違っているからです。現代では容貌は買うことができるでしょうが、その人間性は身につけることが非常に難しいとおもえるからです。言い方を変えれば末摘花は現代では解決可能の部分は持ちあわせていなかったけれど、本質に関わる美は持っていたということになるのではないでしょうか。これは「源氏物語」の中に登場する救いの一つのようにおもえます。

 人間と、生きざまを描く源氏物語は現代においても、人間の普遍的存在性を書いているように思えます。今回の講義を受講して、家内と改めて源氏物語と接することができました。そこには私が思いもかけなかった世界が広がっていたように思えます。源氏物語にはまってしまいそうで恐いのですが、この世界の扉を開いてくださった先生に心から感謝します。

以上。