カウンターテノールのドミニク・ヴィスのリサイタル

3月4日 紀尾井ホール




(デデのひとりごと)

ぽかぽか暖かくなってきましたニャー。だんだん日も長くなって、演奏会に行くのもうきうきしてくる季節です。

今日はカウンターテノールのドミニク・ヴィスのリサイタルを聴いてきました。何年か前にNHKのフランス語講座に登場して若い女性ファンも増えたとか。でも、どちらかというと、舞台では性格俳優というか、一癖ある脇役がぴったりの人ですニャ。甘い声とか、美声というワケではないから、演技力とか語り口のうまさで勝負するタイプです。

最近、政界、官界、財界ぐるみの不況振興策が徹底しているせいか、どの音楽会もかなりショボイんですが、そんな中でもかなり入った方じゃないでしょうか。ざっと見渡して、6割ぐらいのお客さんが来ていたようです。それも、ミーハーギャルが少なくて、本当に音楽が好きで聴きに来ているっていう感じの方が多く、とても気持ちのいい演奏会でしたニャ。

さて、曲目ですが、前半が

ギョーム・ド・マショーの「奥方、見つめないで下さい」
ダウランドの「悲しみよ、とどまれ」/「もし僕の嘆きが」/「暗闇に僕は住みたい」
カッチーニの「アマリリ麗し」
ゲドロンの「ある日恋をしているシルヴィが」
ボエセの「わが辛きさだめを嘆いておくれ」
バタイユの「恋人だよ」
リシャールの「自分自身を追いかけている小川よ」
ルフェーヴルの「どうか閉じこめないで」

マショーは有名なミサ曲を作った中世の革新的な作曲家。これを除くと他は、末期のルネサンスから、初期バロックの作曲家の作品です。大体16世紀の後半から17世紀の前半の作曲家と考えていいでしょう。

はじめに申し上げたとおり、ヴィスの声は決して美声というわけではないので、その語り口がはまるかどうかが、ポイントになるわけですが、この前半の曲目の中で一番楽しめたのはマショーの曲。「ご婦人よ、あなたの高みから私を見つめないで・・・」と、まるで吟遊詩人のような歌なのですが、曲は中世真っ盛り。一本のリュートのかそけき伴奏に乗って、単旋律の素朴な歌がきこえてきます。一時大流行したグレゴリアンチャント風とでも言ったら近い感じでしょうか。ビブラートがない、すーっと伸びるやや硬めな声がホールにすーっと広がってとても気持ちのいい一時でした。(リュートはエリック・ベロック)

次のダウランドの3曲はどれも暗いですニャー。だいたい、最高傑作が例の「あふれよ我が涙(涙のパヴァーヌ)」ですから、あまり明るい曲は作っていない人。「下へ、下へ、ひたすら落ちゆくのみ/立ち直る日は二度と来はしない」とか、「死の訪れまで死んだように生きよう」とまあ、どれも絶望の淵に沈み込んだ歌ばかり。これはどう考えても、ヴィスのような性格俳優よりは、美声の二枚目が歌った方が映える歌です。

カッチーニのアマリリ、ゲドロンのシルヴィあたりはそこそこ楽しめましたニャ。どうしても深刻な歌よりは、この時代に腐るほどあるちょっとエッチで下世話な歌のほうが絶対に面白いんじゃ。

後半の曲目は、

チャンピの「ニーナ」
アレッサンドロ・スカルラッティの「すみれ」
シューベルトの「アヴェマリア」/「ます」
フェレーロの「心はときめくが」
プ−ランクの「愛の小径」/「元気がよすぎる男の子」
オッフェンバックの「ほろ酔い唄」
サティの「エンパイヤ劇場の歌姫」
ベリオの「セクエンツァ III」

さてどうでしょう。魅力的と思うか、ちょっとニャーと感じるか。スカルラッティの「すみれ」ぐらいまでは、いわゆる古典歌曲の範疇に入るんでしょうが、どうしてもティト・スキーパの絶唱が思い出されてしまうんですニャ。ということは何で、これらの歌をカウンターテナーが歌わなければならないのか、ということでもあるわけです。しかもピアノ伴奏で(藤井一興)。今をときめく米良何タラさんを始め、どうもカウンターテナーという奴が最近の流行で、レコード会社が売れるものを歌わせているんじゃなかろうかと、勘ぐりたくなるわけであります。

まあ、文句はこの位にして、後半の曲目ではベリオのセクエンツァが文句なしに楽しめました。これはもう現代音楽の古典といってもいい曲だけど、人間の口を使って出せるあらゆる音を素材にしたアカペラの作品。ヴィスの超絶技巧と早口言葉、そして、コミカルなオノマトペが絶妙でした。



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