コンチェルト・イタリアーノまたは、サクラに関する一考察

モンテヴェルディのマドリガーレから

星に対して彼は打ち明けた(4)、私は若い娘(4)、私は愛らしい羊飼いの娘(7)、死など私には大したことではない(2)、とても美しい僕のリコーリは言うのだ(7)、さようなら美しいフロリダ(6)、私は愛したいとは思わない(9)、誠に辛辣な言葉を(2)、歌っている小鳥よ(7)、愛の神よ、もしお前が公正ならば(5)、つれないアマリルリ(5)、あわれな男よ、話したらいいのか(7)、心地よい自由よ(7)、的が取り巻いている(8)、ニンフの嘆き(8)、このように少しずつ(5)

6月7日 紀尾井ホール




もう六月。そろそろ雨がしとしと降ってくる時期。桜前線はもうとっくの昔に北海道を過ぎて、千島、樺太、シベリヤから北極点方面に去ってしまったはずなのに・・・なんでサクラの話をせにゃならんのか・・・

まあともかく聞いて下さい、お読み下さいニャ。コンチェルト・イタリアーノというのはチェンバロのリナルド・アレッサンドリーニというおっさんがリーダーをやってる、古楽の声楽アンサンブル。おいらは金を捨てるようなものだと思うから神楽坂系の某『音友』だとか『レコゲー』といった物は一切買わないんだが、美山良夫やら服部幸三といった、まあこの手の雑誌に書いてる評論家と称する連中が絶賛しているらしいアンサンブルなのじゃ。おいらはCDを3〜4枚買って聞いたと思うんだが、あまり感心する団体ではなかったな。

それでまあ、あまり関心はなかったんだが、「一度は聴いてみるか」ってなわけで、土曜日にわざわざ都心まで出かけたわけ。でもやっぱり自分の耳が一番正直だし、頼りになるってことを再確認しただけの演奏会でした。

開演間際に当日券で飛び込んだんだけど、まあまあの入り。(八分ぐらいかニャ)。モンテヴェルディって人は生涯に9巻のマドリガーレ曲集を出版したんですが(第9巻は遺作)、上の曲目の後のカッコの中の数字はその巻数を表しています。それで、第5巻ないし6巻以降の物は通奏低音付きのバロック・スタイル、それ以前の物は伴奏がないルネサンス・スタイルのアカペラのマドリガーレ(世俗曲をアカペラっていうのはちょっと形容矛盾だけど)。

モンテヴェルディって人はすごい人。バッハがバロックをどん詰まりに追い込んだ張本人だとすれば、モンテヴェルディはそのバロックを始めた人。文学ならシェークスピア、物理ならガリレオやニュートンにも匹敵するような大人物であります。音楽史の上でも彼に並ぶ人間はと見渡すと、そうですニャー、やっぱ好ききらいは別として、ベートーベンってことになるんでしょうか。

で、肝心の演奏なんだけど、これが散々の出来。まあ好意的に考えて連中は疲れていたのかなあ・・・ただ、以前CDで聴いた時の印象とさほど変わらなかったような気がするんだけど。まず、チェンバロを弾きながら指揮をとるアレッサンドリーニがさほど才気がほとばしるというタイプではない。通奏低音もただ和音をならしているだけで、はっとするような、あざやかな合いの手を入れてくれるわけではない。ここらへん、声楽家だけど、ヤーコプスがチェンバロを弾くとすごいニャーって思うんだが。また、彼のリーダーとしての力量に関して言うと、声楽アンサンブルなのに、声の扱い方がひどく甘い。要するにまったく鍛えていないんですニャー。各曲毎に歌い始めの前にチェンバロで音をとってあげているのに、アインザッツがまるで揃わない。入ってしまってから、音をずり上げたり、下げたり・・・これじゃあ聴いてる方も興ざめ。一曲目から会場内に冷たい空気が漂ったものでありました。

ところがところが、聞いて下さい、お読み下さい。ここでサクラが登場。いきなり一曲目が終わったとたんに拍手を始めたんですニャー。4回か5回手をはたいて、場内が冷たいなあとわかったとたんに、しょぼしょぼ。で、まわりのお客さんもつき合いがいいというのか、仕方ないと思ったのか、パラパラと拍手を始める。上の曲目を見ればわかる人はわかるとおり、ジミ、ジミ、ハデ、といった曲の配列になっていて、拍手を(したい人は)するタイミングってのがちゃんと決まっていプログラム。歌舞伎ほどうるさいことは言わんけど、身の程をわきまえろっていうんだ。いや、本当に感激したんなら拍手するなとは言わない。ただ、拍手は「大きく、細かく、はっきりと」というのが大原則(どこかのテレビ局のADさんみたい)。よかったんなら立ち上がって、ドンドンと床を踏み鳴らして、「ブラヴォー」の一つもかけてみろっていうんだ。これがクラシックのマナーだ。三つ四つはたいてしょぼしょぼってんじゃ、神社の柏手だよ。まわりの客も仕方ないなあ。ダメなものはダメっとしっかり意志表示しないと。なにも「ブー」を出せとは言わないが、白々とした冷たい空気というのは演奏者にも必ず伝わるものだ。つき合いがいいというのも考え物。

まあこんな感じが16曲延々と続いたわけであります。しかし、あのおばさん本当にいいと思って拍手してたのかなあ。それとも呼び屋から金もらったサクラ?あるいは呼び屋の関係者?アンタだよ、2階の中央最後列の(ステージから見て)左から3人目か4人目あたりのおかめ顔のオバハン。いい加減なところで引っ込まないと、ひいきの引き倒しだよ。


ガンバが鉛筆をなめなめ書いてくれた感想文ですニャ

曲目はモンテヴェルディばかり16曲。割合有名な(?)「ニンフの嘆き」とか 「歌っている小鳥よ」といった曲もありました。アレッサンドリーニの チェンバロの伴奏か無伴奏で、6人の声楽アンサンブル(ソプラノ2人、 カウンターテナー1人、テナー2人、バス1人)がいろんな組み合わせで 歌うプログラムでした。

全員イタリア人ということだったので、「語りつつ歌う」モンテヴェルディ に期待して足を運んだのだけれど、ちょっと期待と違うものでした。

うーん、やっぱりイタリア人って「語る」より「歌」にいっちゃうのかな? というか、どの人もオランダやベルギーやフランスやスペインやイギリス のグループのモンテヴェルディの演奏より、言葉に無頓着な印象が強かった。 自分の国の言葉だと(古いとはいえ)、音としての響きに無頓着になっちゃう のかな?

それに、技術的にも、まだこの団体はまだ甘い感じがしました。 古楽の装飾をくっきりきらびやかに歌うメリスマ唱法が身についていない 印象が強かった。ビブラートで代用するので、ハーモニーが美しくない。

一番期待していた「ニンフの嘆き」の冒頭の不協和音から美しい天上の ハーモニーへ移るあたりも、ごちゃごちゃになってしまった。

5、6年前にヤーコプスがオペラ「ユリシーズの帰郷」を上演した時の メンバーにはイタリア人はたしかいなかったと思うけども、言葉の 音、ひとつひとつが際だって、語り口にも言葉の内容と結びついた ドラマが感じられてすばらしかった。その時、別の日にやはり 「モンテヴェルディの夕べ」として、オペラ出演者が歌った演奏会が ありました。あの時は、本当に衝撃的。「タンクレディとクロリンダ」 は、まるで講談のように言葉のつぶてが音楽とせめぎ合って歌われたし、 「ニンフの嘆き」も不協和音が効果的に効くくらいハーモニーが美しかった。 それを思い出すと、コンチェルト・イタリアーノは技術と個性の点で まだまだだな、と思った道すがらでした。




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