トヴェルスカヤ フォルテピアノ・リサイタル

フォルテピアノ:オルガ・トヴェルスカヤ

シューベルト

ピアノソナタ ホ短調 D. 566

楽興の時 D. 780より 第2番 変イ長調、第3番 ヘ短調、第4番 嬰ハ短調

ピアノソナタ イ長調 D. 664

即興曲 D. 899より 第3番 変ト長調、第4番 変イ長調

1999年2月15日 カザルスホール



(デデのひとりごと)

先日ビオンディの相方を務めたオルガ・トヴェルスカヤのソロリサイタルを聴いてきました。68年にロシアに生まれて、ペテルスブルク、イスラエル、ロンドンで勉強したという経歴。ロシア人には珍しく古楽器を操る人です。

この日の楽器は先日とは別のコンラート・グラーフというオリジナル楽器。日本文化財団所蔵ということですが、この団体(?)、確か霞ヶ関ビルにオフィスを構える呼び屋さんですよねぇ。1839年の作だとかで、時代的にはシューマンやショパンの全盛期と言えるでしょう。えーと、見た目はたぶんクルミ(ウォールナット)製の楽器のようで、かなり頑丈な作りのようでした。つまり、弦の張力が上げられるわけです。従って、響きも大きくて豊か。19世紀初頭の楽器に比べると、現代のピアノにかなり近づいているなぁというのがよくわかります。

最初のホ短調のソナタはたぶん初めて聴く曲でした。今世紀になって色々と断片が見つかった曲らしいです。シューベルト20歳の作品ですから、ちょうどプータロー生活を確立した(?)頃の作品。長調と短調が入り交じったような不思議な世界にはまだ到達していませんが、豊かな歌心と、繊細なハーモニーはシューベルトの本領発揮といったところでしょうか。オリジナル楽器で聴くと、ダンパーペダルの効果ははっきりとわかるんですが、それがメロディーラインを壊さないんですね。モダンのピアノだと、ペダルを踏みすぎで、もこもこしてしまうことがありますが、それがないぶんオリジナル楽器ではかなりすっきりとして、見通しのよい音楽が聞こえてきます。

それだけに、フレーズの微妙な表情付けが自在にできる感じで、トヴェルスカヤも繊細な味付けが大好きなようです。それが一番発揮されたのは、次に弾かれた「楽興の時」。変イ長調の曲は、細かい分散和音に乗って雄大なスケールのメロディーが流れ出します。このメロディーが中声部、高音部、低音部と移動して行くさまが手に取るようにわかります。しかもほとんどペダルを踏みっぱなしの感じなのに、分散和音のひとつひとつまではっきりと聞き取れます。まるで、ギターで弾いているような錯覚を覚えますねぇ。

楽興の時第4番では中間部の柔らかなメロディーのところで特殊なペダルを使っていました。楽器の構造はよくわかりませんが、“sotto voce”とでも名付けたいようなペダルです。響きはかなりあって、打弦点が通常よりもナットから離れて、駒にやや近いあたりに移ったみたいな音です。ハープか、ツィターか、それとも大きなディスク型のオルゴールのような響きと言ったらわかるかニャー。とても愛らしくて、しかも前後の部分としっかりコントラストが付くペダルでした。トヴェルスカヤが何かのインタビューで「昔の楽器にあって、今のピアノでは失われたペダルがある」というようなことを語っていましたが、あるいは、このペダルのことを言っていたのかもしれません。

毎度のことですが、後半になってお客さんがどっと2階のバルコニー席に移ってきました。やっぱりこのホールは時代楽器には向いていないみたい。最初は有名なイ長調のソナタ。第1楽章のアウフタクトで入る第1主題は、普通のピアノなら流麗に流れるところですが、この人はメロディーの中のひとつひとつのフレーズを丁寧に描き出して行きます。その瞬間瞬間に集中する度合いが並大抵じゃない。これもやはり時代楽器を使っているメリットでしょう。ただ、瞬間への集中が度を超すと全体の見通しが悪くなるんですが、そこらへんの見極めもなかなか心得ているようです。長調のスケールを駆け上がっていく間に、短調になりまた長和音で小休止といった、シューベルト独自の微妙な音の綾が心憎いくらいに伝わって来ますニャー。

第3楽章のロンド風の雅な走句も微妙に味付けされていて、かなり速めのテンポで弾いているのに、フレーズの切れ目ごとにちょっと立ち止まって考えているような気がします。これが実にしっくりはまって、全体的にも心地よい構成を見せてくれます。たとえばよくある例ですが、

1)ベンケイガナギナタヲモッテヤグラノウエニタッテイル
2)ベンケイガナ〜、ギナタヲモッテヤ〜、グラノウエニタッテイル
3)ベンケイガ、ナギナタヲモッテ、ヤグラノウエニタッテイル

1)のように弾いてしまうピアニストがなんと多いことか。しかも、時には2)のようにお門違いの解釈をしてくれたりして。3)のように弾いてくれるピアニストはごく希。これは解釈がどうこうとか言う以前に、歌心があるかどうかという極めて初歩的な問題の場合が多いようです。つまり、自分で歌ってみればすぐに気付くことなんですが。ブレスがいらないというピアノの特性あるいは欠陥が、こうした演奏を可能にしてしまうわけですけど・・・楽器の進化(?)とともに3)→1)という演奏上の退化(?)が起こってくるような気もします。音が持続して、響きが豊かになるほど、フレーズが長くなる可能性(or 危険性)が出てきます。その結果、個性が枯渇してゆくわけですニャー。さてさて、「弁慶が長刀を持って、櫓の上に立っている」と弾くのはなかなか難しいことのようです。

技術的にもこのソナタはかなり難度の高い曲ですが、この日のトヴェルスカヤはかなり善戦していたと思います。ただやはり、オクターブのスケールなど、「ウルトラC」を出さなきゃならない場所ではやや着地が不安定。そこらへんは、モダンのピアノの方が「ごまかし」が効きやすいところですニャー。

最後の即興曲は死の前年に書かれたものだそうです。友達とベートーヴェンの葬式に行った帰りに居酒屋で精進落とし。

友人:ベートーヴェン先生にカンパーイ。

シューベルト:次に死ぬ人にカンパーイ。

とやっちまったんですニャー。もしあの時居酒屋に入らなければ。もし入ったとしても、乾杯しなければ、シューベルトはもう少し長生きしたのではないかと言われております。即興曲の3番と4番は子供の練習曲としても有名ですけど、フォルテピアノで弾くとまるで違った曲に聞こえます。4番はとにかく華やかに淀みなく弾かなきゃならんといった感じで、バリバリバリっとやる人が多いですが、華やかなアルペッジョの背後に潜む微妙な和音は、シューベルトの円熟の技を感じさせてくれます。この曲、一体メロディーはどこにあるんだろう?と思っていたら、わかりました、華麗なアルペジオのページの最後にメロディーらしきものがほの見えてはいたんですが、冒頭からベースが、(多少音型が異なりますが)同じメロディーを繰り返していたんですニャー。ま、そんなこともちょこっと発見いたしましたです。

アンコールはお国もの、グリンカのノクターンとやらを2曲。ノクターンという形式(?)はショパンが完成させたんでしょうが、グリンカのはもうちょっと歌に寄った、シューベルト風の味わいがある曲でした。「ルスランとリュドミラ」のそのまた序曲しか普通は耳にしませんが、へぇ〜知らなかったぞ、こんなかわいらしい曲も書いていたのかっっっ。

ピアノの演奏会には必ず(80%ぐらいの確率)で現れる、年輩の紳士がこの日も1階のかぶりつきで聴いていて、拍手が終わったとたんに扉に向かって猛烈なダッシュ。何事かと思ったら、並べてあるCDを片っ端から買い込んでおりました。(この人、ある指揮者にそっくりで、我が家では「偽若杉」と呼び慣わしているんですが、前売りは絶対に買わない人。いつも週刊誌ぐらいのカードを持っていて、開演前にホールの入り口でそれを、ささやかに捧げ持って立っているんですニャー。その文言に曰く、「チケット余っていたら、譲って下さい」。)そんなこんなで、カザルスホールまで出張ってきたヤマハさん、この日はレコードを全部売り切ったみたいです。メデタシ、メデタシ。



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