コンセルヴァトワールの巨匠たち

フランス音楽アカデミー・アンサンブル・スペシャル・コンサート'99


1999年4月7日 紀尾井ホール


(デデのひとりごと)

毎年、花祭りの日に行われるフランスのセンセたちの演奏会。今年で10回目だそうです。京都の日仏で行われる講習会から流れて、センセ方が一曲ずつ披露するという趣向ですが、デデは久しぶりに聴きに行きました。

ベートーヴェンのセレナーデは、聴いてみれば思わず「ああ、これか!」って言ってしまう類の曲です。どの楽章もベートーヴェンにしてはメロディーが美しく、親しみやすい曲ですニャ。比較的高音の楽器3本の曲なんで、ちょっとバランスが取りにくそうです。中でもヴィオラのパスキエ氏(“パスキエ・トリオ”のパスキエ兄弟の長男?でしょうか)が、出だしかなり不安定で、かなり確信ありげに堂々と音を外してくれたりしたもんですから、ショスタコ風の不安を醸し出しておりました。でもそこはそれ、手練れたセンセ方ですから、次第に調子が出てくるともうそれは丁々発止の果たし合いといった雰囲気になってきます。全6楽章のうち半ば過ぎからは音も決まりだして、心地よい興奮状態になってきましたニャ。フルートのベルノルドはガーディナーが振っていた頃のリヨン・オペラの主席奏者だったそうで、端正な笛。ジャリはパイヤールのところのコンマスだった人ですね。体に似合わず、細めのヴァイオリンですニャー。というわけで、チェロのように太い音を出すパスキエ兄さんが色々な意味で目立っておりました。

ベルクの曲はこの日の曲目の中ではちょっと異色でしょう。イヴァルディというピアノ弾きはあちこち室内楽で活躍していますが、音色のパレットが非常に豊富でした。なにやら複雑な構成の曲らしいですが、全体に叙情的で、ところにより一時表現主義的。パスキエ弟のヴァイオリンとディドナトのクラは、共感を持ってロマンチックな詩情を歌い上げていたと思います。でもイヴァルディの変幻自在なピアノが全体をリードしていたでしょうか。

フォーレのトリオは、冒頭ミュレールのチェロが鳴り出したとたんに予感がしたんですが、大変な熱演。パスキエも自家薬籠中の作品ですから相当な思い入れもあるんでしょう。ただ、例によって最初は三人が何となくかみ合わない。でもだんだんと相手の呼吸がわかってきて、最後は気の向くままに弾いていても整ってくる。二楽章には弦の二人がたっぷりとした歌をオクターブで歌うところが多いんですが、最初はビブラートのかけ方が全然そろっていない。でも似たフレーズが2度3度とでてくるたびに不思議と揃ってきて、それでいながらちょっと押してみたり、引いてみたりと、駆け引きもなかなかのもの。輝かしい第三楽章は三種の楽器がぶつかり合い火花を散らしたかと思えば、すっと引いて相手に花を持たせるといった、いわば室内楽の醍醐味をふんだんに味わうことができました。ちょっと露骨すぎるくらいオーバーな表現が互いの音楽を壊さずに繰り広げられるさまは、まさに、音楽の作成現場に立ち会っているといった感じ。弦の二人に比べ、ピアノのブリュデルマッシェールという人は今ひとつ表現の幅が狭いようでしたが。

後半の最初はアニェス・メロンが登場して、ゴーティエ、ボードレールなどの詩によるデュパルクの歌を5曲。彼女を聴くのははずいぶん久しぶりですが、そうですニャー。年相応にちょっと太めになったでしょうか。以前は見るからに可憐な歌姫という雰囲気を漂わせていましたが。子育てでちょっとブランクがあったそうですけど、いまじゃ旦那(ドミニク・ヴィス)の方が細いんじゃないでしょうか。かつては細くて抜けのいい声でしたが(つまり、後ろの席ほどよく聞こえる)、声の方も少し太くなって、曲のせいもあるんでしょう、ビブラートをかなり意図的に使っていました。肝心の歌唱ですが、明晰な発音のフランス語で、歌い崩すところが全くない、端正な歌い回し。でも「戦いのある国へ」での戦争に行った夫を待つ妻の切ない心情。「悲しい歌」や「前世」における、やるせない、ほとんど厭世的な叙情。一転して、「ミニョン」や「旅への誘い」の明るい夢。こうした感情の移ろいをみごとに描き分けていたとは思います。

でもねぇ、違うんだニャー。やっぱりこの人はバロックの人だ。声で聴かせるというよりも、微妙な語り口で聴かせるタイプだと思うんだが。音楽に直接的感情表現が盛り込まれるようになった古典派以降の音楽と、バロック以前の繊細な音楽とは本質的な違いがあるわけで、こうした違和感は旦那の方のリサイタル(昨年)でも感じましたニャー。ところでピアノのイヴァルディはメロンの歌にベストマッチ。単なる伴奏にとどまらず、多彩な音色を繰り出して、歌のイメージを膨らませてくれました。

さてさて、最後にヴィエルヌの五重奏。これはたぶん初めて聴いた曲でしょう。ヴィエルヌというとオルガンしか思い浮かばないのは仕方ないとして、この五重奏もまさにオルガン的な、重厚な響きの曲でした。解説によると2人の息子を戦争で亡くした、苦しみ、悲しみが込められている云々とありますから、確かに重苦しい閉塞感のようなものが全体を支配しています。ピアノの前弾きに続いて弦楽四重奏が入って来ますが、いきなりわけのわからん不協和音が解決されずに、聴き手は宙ぶらりんの状態におかれます。別にゲンダイオンガクとか無調音楽というわけではないのですが、この冒頭の和音が全体の奇妙な閉塞感を決定づけているような気がしてなりません。第二楽章には「やすらぎ」とか「慰め」といった部分もあるにはあるんでしょうが、それが不安や悲しみを和らげるかというと、さにあらず。

譜面を見ないと何とも言えないんですが、この曲は五重奏というよりも、弦楽四重奏とピアノが最後まで対立する関係というか、かみ合わない関係に書かれているように思えてなりませんでした。あるいはこれは演奏者の問題かもしれません。もっと全体を引っ張っていいはずの、ジャリがなんともか細い音で。

そんなこんなで、6時半に始まって、盛りだくさんの演奏が終了した時にはもう9時をかなりすぎておりました。コンセルヴァトワール (conservatoire) という言葉はもちろん、英語なら“conservative”に当たるわけで、「音楽院」とか「音楽学校」というやつは保守的なところなんですニャ。どうして保守的かといえばもちろん、技術にしろ音楽表現にしろまず、伝統の重みを伝えるところだからなんでしょう。その保守の牙城のセンセたちの演奏は、手練手管を知り尽くしているだけに、ほとんどぶっつけ本番でもでてくるアイディアが豊富。時に陳腐。でも明らかに表現したいもの、自分がやりたい音楽を持っている。それをストレートに、ほとんど無邪気と言っていいほどに表現してしまうわけで、聴いていておもしろいし、またその制作現場に立ち会うような気持ちで、musizierenというやつですか、音楽する喜びを満喫させてくれる演奏会でもありました。超一流の演奏家ならもっとそつなく、ミスなく、計算通りの演奏をするんでしょうが、それとは正反対に音楽の喜びにあふれた演奏会でありました。

翻って我が国の音楽教育を考えるに・・・いや、今考えるのはやめときましょう。





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