モンテヴェルディの『ポッペーアの戴冠』

10月6日、7日、9日 紀尾井ホール

ポッペア:ジュリア・グッディング(ソプラノ)
ネローネ:ギ・ド・メイ(テノール)
オットーネ:アクセル・ケーラー(カウンターテナー)
オッターヴィア:スーザン・ビックリー(メッゾソプラノ)
一人3役:ドミニク・ヴィス(カウンターテナー)
その他7人ほど

リチャード・ブースビーをバンマスとする7人のオーケストラ
(えーと、ヴァイオリンが2人、テオルボが2人、ハープ、チェロ/リローネ、チェンバロが1人ずつ)

演出:ピーター・ジェームズ



(デデのひとりごと)

ふ・ふ・ふ。見ましたよ、聴きましたよ。この秋最大の(?)呼び物。『ポッペアの戴冠』。10曲書いたって言われてますが、モンテヴェルディの現存するオペラは3つだけ。このうち「最古の」と言われ、バロックという形式をうち立てたとも称される若書き(といってももう40歳過ぎてからの作品ですが)の『オルフェオ』は、もちろんギリシャ神話中最高の詩神が主人公。死の前年(1641年、作曲者74歳)に初演された『ウリッセ(オデュッセイア)の帰還』は、「かの人を語れ、ムーサ(ミューズ)よ・・・」とホメロスが歌ったように、神々の世界に片足突っ込んじまってるヒトが主人公。どちらも劇中では神さんが展開の細部にまで口を出し、手を出し、足をすくったりします。ここらへん、オッフェンバックの『天国と地獄』も同じ作りになってますニャ。もっともこちらは、カンカン踊りが目玉ですが。

これらに対してモンテヴェルディの死の年に書かれた『ポッペア』は、強烈な上昇志向を持った人妻と、芸術君主、暴君、色情魔、マザコン、母親殺し、すけこましの第5代ローマ皇帝・・・まあ何と呼ばれようと、生身の人間が主人公。もっとも歴史的には大した人物じゃないですが。(人物としては、ネロを生み、ネロと寝て、ネロに殺されたアグリッピーナの方が、たいていの方には興味深いんじゃないでしょうか?)

幕が上がります。(おっと、幕はそもそもナシ。初めから仕込みが丸見えで、舞台上手に数人のオケ。中央から下手は2段重ねで、下の部分はあの、例の、ポンペイの、「○○の館」の壁画風のカーテンが、しんねりむっつりとこれから展開する情景を暗示しております。)モンテヴェルディの常套手段(?)でしょうか、最初に神さんが何人(何柱?)か現れて対話をしながら、芝居全体の方向を示します。紀尾井ホールはもともと芝居用の小屋ではないですから、これが、一種のプロセニアム効果にもなります。ところでどんな業界でもそうでしょうが、3代目以降は屋台骨がちょっと傾いでくるという一般的な傾向があります。皇帝稼業も同様でして、3代目以降、世の中ちょっと変だニャといった感じ(←これは今のどっかの国も同じ)。従って、徳の神はショッピングバッグ・レディーに身をやつし、「お金くだせえ」と物乞いしながら客席を一周。運の女神はカジノでトランプを配っている気配。愛の神(キューピッドですニャ)だけがやたら元気で、そう、これから始まるのはエロスの世界なんだぁってことをはっきりと示します。

この芝居、不条理というワケじゃないですが、全体として、悪徳が栄え、善人は亡びるという筋立てです。従ってあらゆる場面で有理と思われる人間は弱い立場に置かれ、そこから立ち直る機会さえつぶされていきます。オットーネ(実はこの人、ネロの自害後のゴタゴタの中から浮かび上がって、短期政権でしたが、一応第7代皇帝になったヒト)は文字通りのコキュですニャ。外地から花束を抱えて帰ってきたというのに、妻のポッペアはネロときぬぎぬ。ネロは2人の子分を従えたやくざの親分といった風情。シミーズ姿のポッペアが「ネローネ、ネローネ、行っちゃいや」、サングラスをかけたネロは「ポッペア、ポッペア、また来るから」てな歌が延々と続きます。この間、オットーネはじっと我慢の子。声もくぐもってブツブツ。こういう声の質かなっと思いましたが、ありゃ演技ですね。

愛の勝利と言っちゃぁ大げさでしょうが、モラルと愛欲とが音を立ててぶつかり合うシーンはもうひとつ。第1幕第9場で、家庭教師セネカがネロのご乱行をとがめます。「失せやがれ、くそじじい」の一言でセネカが去って、第10場は濡れ場のはず。「この胸のリンゴは?」・・・「この腕のあつい抱擁は」・・・「むぎゅー、・・・」「ニャーォ」・・・「フガーーーー」まあ、実況中継するとこんな感じなんです。ところが演出家の勝利でしょうか?場面転換が不自由な舞台を逆手にとって、去ったはずのセネカが舞台上手のオーケストラの前で、この情景をじっと見つめているんですニャー。で、「見られているともっと燃える」ってな感じで、件の2人の演技も熱が入ってくる。ここらあたりは、ハラハラドキドキでしたニャー。

第2幕のセネカ自殺の場。有名な「セネカ死なないで」が天上の響きをもたらした直後、弟子が黒いガウンを脱ぎ捨てます。現れた姿は、皇妃のお小姓と侍女。愛の睦言が始まります。こんなところも面白い演出ですニャー。死んだセネカが浮かばれないなんて言わないでね。

圧倒的だったのはセネカの死の知らせを受けて、ネロと手下のルカーノが歌う酒盛りの場面。ネロはあくまでも輝かしく、直前に死んだセネカはあまりにも惨めです。ここらあたりのバロック的な対比の妙は、「背徳」をテーマにした作品ゆえに一層際だちます。そして、三行半を突きつけられたオクタウィア(ネロの奥さん)が、最後に歌う「アッ、アッ、アディオ、ローマ」。これは名唱でした。でも、でもね、すぐに戴冠式。めでたく結ばれた2人が幕切れに歌うのが、背徳の二重唱「ずっとあなたを見つめ」。そうです、この歌を歌うために3時間半演技を続けてきたんですニャー。で、お客さんももちろんこの歌を聴きたいから来ているわけで・・・舞台上は2人だけ。正面を向いて小さな椅子に腰掛けています。確か3回繰り返されますが、いつの間にやら2人が見つめ合っていましたニャ。ゾクゾクッとくるシーンです。

この10数年、演出家の時代とやら、さかんにもてはやされて、宇宙船の中でワグナーをやったり、ブルックリンにドン・ジョバンニが現れたり、世界中で珍奇な演出が横行していましたけど、やっぱりイギリスはシェイクスピアの国ですニャ。すごく説得力のある舞台でした。演出のピーター・ジェームズに拍手!そう言えば、モンテヴェルディってまさに、シェイクスピアと同じ時代を生きた人ですね。シェイクスピアの芝居も、当時は音楽付きで演じられたそうですが、彼も「音楽か、言葉か」なんて青臭い議論をやったんでしょうかニャー?分野は異なっても、不世出の天才が同時代に生きていたというのは、やはり、神の配剤でしょうか、それとも、時代のなせる業なのか、はたまた単なる偶然なのか??? 音楽的な内容に関しては、ガンバの批評も読んでやってくださいニャ。よろしく〜



(ガンバのひとりごと)

バロックオペラ「ポッペーアの戴冠」(紀尾井ホール)

10月6,7,9日の東京公演3日間すべてに行って来ました(席は、それぞれ1階5列目中央、2階3列目中央、1階15列目少々右)。おかげで、財布の軽いこと。

感想を一言で言うと、「すごーくおもしろくて、聞き応えがあって大満足!」。

3時間半の演奏時間が物足りなく思うほど。歌手の水準がとても高く、1993年の東京音楽祭のときのバロックオペラ「ウリッセ(ユリシーズ)の帰郷」のときより高かったんじゃないかと思うほど。とりわけ、ネローネ(ネロ)を歌ったテナーのギ・ド・メイが凄かった。この人、「ユリシーズの帰郷」のときも大食漢のイーロの役で出演していたけど、あれも凄かったなあ。石(張りぼて?)を首に下げて文化村の大ホールの1階客席後方から走りながらフォルテッシモで歌い続けて舞台に駆け登り、自殺の歌を歌ったっけ。

今回、最初は「バロックオペラにモダン演出ぅ〜?!?とんでもないよっ!!」と思ったけど、これがバッチリでした。

「ユリシーズの帰郷」を見て大感激したこともあって、バロックオペラは、やっぱり当時の衣装と装置が必須だと、今までずっと思ってきた。ワグナーでもモーツァルトでも、モダン演出がよいと思ったことなかったし。でも、今回の「ポッペーアの戴冠」では、初めてモダン演出に納得しました。このオペラのテーマには、この演出の必然性があったと思うな。つまり、愛と欲望(煎じ詰めればセックス)が一番のテーマのオペラ。本来、ソプラノ・カストラート(去勢した男性ソプラノ歌手)という配役のネローネにテナーをあてたことが、今回の演出が成功した最大の要因だと思う。 そして、このテナーとして、モンテヴェルディを歌わせると本当にすごいギ・ド・メイを配役したことが、まさにドンピシャ。おかげで、ポッペーアとネローネの濡れ場(?)が、すごくエッチな感じを醸し出して、ドラマとして盛り上がったのね。カストラートの時代でもネローネは、声はソプラノでも男としてドラマに登場してたんだろうし(男と女の境界を行き来する妖しさはあったろうけど)。 さらに、舞台を現代にもってきたことで、ネローネに生身の男という感じが強まって、オペラ全体にエロティックな匂いが立ちこめたんだと思う。それに、ネローネとポッペアの二重唱がソプラノとメゾソプラノだと、どっちがどっちだかわかんないし、色気は皆無なんだな(ヤコプスなどの録音は素晴らしいのだけど、そこが難点)。

さて、歌手について。
以前より、バロックオペラのの歌い方がドラマティックになってきていると思った。でも、バロックの歌の魅力である「歌いつつ語る」姿勢はきちんとあって、ドラマティックだけど、言葉はくっきりと魅力的に音楽と手と手を携えているって感じだ。うん。私は気に入ったぞ。どの歌手も、端役にいたるまできちんとバロックのテクニックを身につけた人たちだと思う。メリスマ(1つの音節に装飾を付けて、複数の音として歌う技法)もきっちり歌える人が多かったし、バロック的な装飾も華麗に歌われていた。

ジュリア・グッディング(ポッペーア役:ソプラノ)は、なかなか妖艶な演技と声で魅力的。

ドミニク・ヴィス(ポッペアの乳母:皇后オッタヴィアの乳母:メルクーリの3役:カウンターテナー)の存在感は、相変わらずすごかった。彼の少々えげつないくらいの誇張ある演技と歌(ときにノンビブラートの清らかな声も交えて)が、かえって猥雑な世界にきらりと光るものを感じさせて、心に響いた。うん、バロックらしいぞ。ヴィスはやっぱりすごいな。2人の乳母の演じ分けも楽しかった。男、女、少年、老婆を自由に行き来できる希有な人!とりわけ心に残ったのは、ポッペーアを膝に寝かせて歌った子守歌みたいな歌のところ。ビブラートを押さえたあの美しい声でそっと歌うあの歌が耳について離れなくなっちゃった(「お眠りなさい・・・大好きですよ、ポッペーア様・・・」)。

徳とドルシネッラと侍女などを歌ったソプラノのスージー・ル・ブランもよかった。彼女が最初、老けたメークでお婆さんの格好をして平戸間を歩いていたとき、脇で見たのだけど、本当にお婆さんだと思った。それが、舞台で初々しい女の子に変わったのは見事でした。他の歌手もよかった。

でも、私が一番圧倒されたのは、ネローネのギ・ド・メイ。「ウリッセの帰郷」のときは、コミカルで大胆な演技と美しく華麗な声が魅力的でしたが、「ポッペーア」では、男っぽい迫力ある歌いっぷり。でも、どっちも、たたみかけるような語りがとってもいい!とりわけ、セネカが死んだあと、もう一人のテナーと酒盛りして歌うところがよかったな。メリスマが鮮やかで。「ボッカ、ボッカ・・・(あの唇・・・)」のあたりはもう最高!欲惚けぶりもきまってたな。声の存在感がほんとに圧倒的。 でも、彼は本当は、もっと高い声が美しいハイ・テナーなので、今回そのあたりの音域があまり聴けなかったのはちょっと残念(最初の朝帰りの場面でポッペーアと延々「アディーオ」を交わし合うところで、少し聴けたけど)。91年にトン・コープマンとアムステルダム・バロック・オーケストラがやったモーツァルトのレクイエムで歌ったときは、2,000人入る東京芸術劇場の3階席から聴いていたのだけど、やわらかな高い声がひろびろと響いて美しかったのが忘れられません(それでファンになったのだが)。そういえば、あのころは黒っぽいくりくりカール頭だったな。今はショーン・コネリー化してるけど。

さて、器楽演奏のパーセル・カルテットですが、正直言って物足りなかったなあ。「ウリッセの帰郷」のときのヤコプスのアンサンブルの華麗な演奏を聴いちゃってるので。歌手の後をなんだか自信なげに追いかけてくチェンバロ、テオルボは、少々さみしかった。リンドベルイってリュート弾きは何度も聴いているはずなんだが、印象に残らないひとだね。小編成の版を使ったといっても、通奏低音をもうちょっとまともに埋める努力って必要でしょう。それにシンフォニアとかリトルネッロとか、要するに器楽合奏の部分も工夫の余地大だぞ。基本的に歌手に主導権を持たせて、伴奏に徹した感じのオケでしたね。やっぱりリコーダーとかトランペットとか欲しいものだ。もうちょっと音楽的にメリハリの利いた進行になっていたらよかったんだが。舞台装置も、欲を言えば、もう少し手をかけてほしかった。でもまあ、器楽も舞台装置も、オペラをぶちこわしにするというほどの不満はなかったけどね。各種不備を補って余りある歌手陣だったな。

今の時代を強く感じさせるバロック・オペラを見せて聴かせてもらいました。 ああ、もっと何回も見たい!!!再演してくれないかなあ・・・アレグロ・ミュージックさん!

ところで、古楽大好きなニムさんの批評もご覧になってください。



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