シプリアン・カツァリス リサイタル

グリーグ:「抒情小曲集」から12曲
グリーグ:練習曲“ショパンに捧げる”
ショパン:ノクターン ト短調 Op.15-3
シューマン:ショパンのノクターン Op.15-3による変奏曲
ショパン:幻想曲 Op.49

シューマン:幻想曲 Op.17

11月17日 津田ホール



(デデのひとりごと)

「忘却とは忘れ去ることなり」、なんて陳腐なセリフですが、音楽家ってどうやって譜面を覚えるんでしょうニャー?その昔、カール・リヒターというバッハの大家が来日した折りに「ゴルトベルク変奏曲」を弾いたんですが、これが最初から終わりまで完全な即興演奏。アリアと30曲の変奏があるんですが、どの変奏もト長調で始まって、なんとなくト長調で終わるへんてこりんな演奏でした。これ、NHKがそのまま中継しちゃったんですニャー。で、後で聞いた話なんですが、笑い話みたいですけど、リヒターは時差ボケが治らずにひどい不眠症にかかってしまい、演奏会当日は頭の中が真っ白けだったんだそうな。この人は「マタイ受難曲」のような大曲でも、暗譜で指揮しながら通奏低音のチェンバロを弾いてしまうほどの技量の持ち主でしたから、たぶん楽譜の各ページの隅々まで完璧に覚え込むタイプだったんでしょうね。

ある尺八吹きの方が(この人も譜面を完全に覚えてしまう人)こんな話をしていました。「武満やっててさぁ、いつものように頭の中で楽譜を1ページずつめくっていったんだけど、あ、最後、あと残り1ページだなあと思って、(頭の中で)譜面をめくってみたら、なんと真っ白だったのよぉ。」

この頃とんと名前を聞かなくなっちゃいましたが、ブレンデルっていうピアニストもロンドンでモーツァルト(だったかな)のコンチェルトを弾いているときに、真っ白けを体験したそうですニャ。それで最近弾かなくなったのかなぁ?

リヒテルもどこかの演奏会で、だれそれのスケルツォを弾いている最中にこの「白の恐怖」に見舞われ、コーダの入り口がわからなくなって、猛烈なスピードで同じところを10分近くグルグル繰り返していたそうな。だからでしょうか、晩年は必ず譜面を見て演奏していましたね。

シューラ・チェルカスキーというおじさんがいました。先年亡くなりましたが、この人は徹底した芸人でした。とにかくお客さんを楽しませることが自分の楽しみでもあるといった感じで、同じ曲を弾いても2度と同じ演奏はしませんでしたね。いつだったかの来日の折りに、NHKのスタジオでも、そのあと2回ほど続けて演奏会でも、アンコールに「愛の夢第3番」をやりました。それが、全部違う弾き方なんですねぇ。その時の空気というか電波というのか、本人に言わせれば「気分じゃよ」ってことかもしれませんが、会場のフンイキでいくらでも変わっていっちゃうんですね。

で、このおっさんのリハーサルってのを(壁越しに)聴いた人の話だと、演奏会とは全く別人みたいで、楽譜を置いて、子供が練習するみたいにゆっくり、ゆっくり、音を確かめるようにして弾いていたっていうんです。楽譜を完璧に暗記していたらちょっと考えられない光景ですね。たとえば一流の運動選手がボールを扱うような感覚で、指の感覚、体の感覚として曲を覚えていたんでしょうね。だから、リハーサルではことさら、楽譜を点検し直していたんじゃないかという気がします。

よくロマン派ピアニストっていう文脈で登場するホロヴィッツも、たぶんチェルカスキーと同じようなタイプだったのではないかと想像するんですが。この人もライブ・レコーディングを聴き比べるとその時によって、ほとんど場当たり的に演奏が変化していく人ですね。練り上げた演奏じゃなかったです。

それで、やっとカツァリスのお話です。最初のグリーグの曲集は、ひとつひとつはどれも小さなものですが、どの曲も隅々まで研ぎ澄まされた珠玉の演奏でした。特に民謡風のメロディーのコブシなんぞは、時に哀愁があり、時にエネルギッシュで楽しめました。「ノルウェー・ダンス」の重々しい低音のドローンと、高音の民謡風の歌などはその最たるものでしょうか。有名な「こびとの行進」や、「小鳥」の愛らしさもなかなかのもの。「こびと」ってのが漢字で出ないのは、ひょっとして“politically incorrect”なのかねぇ、阿波徳島(ATOK)さんよ〜?

チェルカスキーもそうだったですけど、カツァリスも譜面上は読みとれないような内声部の旋律を浮き上がらせたり、はっとするような瞬間を作り出すのがうまい人。たとえば、ソプラノとその他の声部に一拍ちがいのカノン風の旋律がある場合、プロなら、ああ対位法になっているんだニャーという風には誰でも弾けるはず?でも、カツァリスの場合には、両方の旋律が完全に独立して聞こえるんですね。たとえばフルートとヴァイオリンがデュエットをしているように聞こえるわけです。これは、強弱のコントロールだけじゃなくて、時間差を使っているなあっていう気がします。ほんのわずかですけど、二つの旋律に時間差を付けて弾いているんじゃなかろうかと。

この曲集の最後に「ノットゥルノ」を弾いて締めくくり、次に同じ作曲家のショパンに捧げる練習曲。でも、ショパンというよりはリストか、スクリャービンのように聞こえたのは気のせいでしょうか。

つぎに弾いたのはショパンのト短調のノクターン。舟歌風の3拍子か6拍子の曲でしょうか。で、これから本歌取りしたシューマンの変奏曲が続きました。この変奏曲がなかなかの出来。こいつは譜面を見ながらの演奏だったんですが、かえって生き生きしていました。

前半の最後はショパンの幻想曲。この曲を聴くたびに「ゆーきのふるまちを〜〜〜」って歌いたくなるのはおいらだけかいなぁ?歌うべきところはたっぷり歌って、急速なアルペッジョのフレーズは鮮やかに、はらりと切って捨ててんげりって感じ。歌わせ方がうまい人なんですが、全体にかなり速いテンポ。アルペッジョのグチャグチャしたところを弾ききって、行進曲風のえっらそうなフレーズが戻ってくるところで、空手風に「ヤッ」って気合い一発。この声はホール中に響きました。最後に弱音で、モヤモヤやるあたりのところはカツァリスのお得意のはずなんですが、なんだか取って付けたようで・・・

後半はシューマンの幻想曲。カツァリスが「私はモーツァルトの生まれ変わりかもしれない」って言うと、うん確かにそうだニャと思ってしまう。「私はリストの・・・」って言われても、うんうんと思う。「私はショパンの・・・」って言ったとしても、うん納得。確かにちょっと微熱がありそうな、いい男だ。だけど、「私はシューマンの・・・」っていうのだけは納得できない。これは風貌(みかけ)の話。どう見てもシューマンには見えないんだけど、この人シューマンがめっちゃくちゃうまい。

この日の演奏会に来た人の中にも10何年か前に、「ベートーヴェンの英雄をピアノで弾く」って鳴り物入りで来日したときの演奏会が忘れられない人が多いんじゃないだろうか。エロイカも確かにすごかったんだけど、あの演奏会で聴き手の涙を絞り取ったのは「子供の情景」だったんですニャー。鼻をすすりながらハンドバッグからハンカチを取り出すオバサマ達の姿が・・・

後半の初めに自ら、たどたどしい日本語で「ドーモコノゴロ、トシノセイカ、ドワスレガヒドクテ・・・ドーカ、ガクフヲミルノヲ、オユルシクダサイ」とあいさつ。譜面を置いて譜めくりも付いて演奏したんですが、これがかなり聴かせました。第2楽章の圧倒的高揚感、そして第3楽章のもやもやっとした中から、メロディーラインを自在に浮かび上がらせる手腕など、さすがと思わせる瞬間が多々ありました。どうもカツァリスも「白の恐怖」があったのかなあと想像する次第です。それが最近イマイチ精彩がないことの直接の原因なのか、その他にもっと根本的な要因があるのかはわかりませんが。




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