(デデのひとりごと)
先月に続いて武久源造を聞いてきました。曲によって多少の好不調はあるんですが、総じて楽しめた演奏会でした。最初のフローベルガーはちょっと生彩を欠いていたかニャー。ちょっと集中が持続せずに、音の流れが途切れるきらいがありました。
この日のメインプロはクーナウの有名な「聖書ソナタ」。有名だとは言っても、「ダビデとゴリアテ」を除けば滅多に聞く機会がない曲。第1番はさすがに描写のシーンが実に生き生きとして、チェンバロ一台で大活劇シーンを描き出すかのような演奏でした。先月もコンティヌオに使っていましたが、なんか汚らしいペンキを塗ったチェンバロがすごくいい音なんですニャー。見た目だけではわかりませんが、ダブルベントの楽器なんでデュルケンかジャーマンでしょうか。でもそれほどでかくない。ケースの上にダストカバーというのか、副響板というのか、ベニヤのカバーをつけてあるんですが、まあともかくすばらしく響きのいい楽器です。休憩時間に外に出ていたら、外まで調律の音が聞こえてくるほどの音量!!!
休憩後は聖書ソナタの4番と6番。題名からしてもいかにも抹香臭い。プログラムでも武久自らが聖書の物語をかなり詳細に語っていて、それに合わせてステージ横に置かれた番号札が順に捲られていき、今どこの場面を弾いているのかがわかるという趣向。ただ言っちゃ悪いんだが、ここまで辛気くさい物語を、きちっと聞かなきゃならないものかどうか・・・武久の演奏はきびきびとして推進力があり、時にロマンチックなほど穏やかな表情を見せ、さらにレジスターの変化も面白く聞かせてくれたんですが、問題は作品自体にあったのかも。確かにバッハの前任者として、特に描写音楽に定評があったとされるクーナウですが、こりゃあんまり弾かれないのももっともかなといった気がしました。ただ、シューマンの曲集のように、とりとめもなく珠玉の小品が並んでいると思って聞けば、それは楽しい楽しい曲集なんですが。
最後に武久が編曲したバッハのシャコンヌ。これにもちょっと仕掛けがありまして、武久の解釈では、この曲の中にオルフェウスとエウリュディケーの物語が隠されているんだとか。愛する妻を迎えに黄泉下りをして連れ帰る途中で振り返ってしまったために・・・という「天国と地獄」の物語ですニャー。これも番号が書かれた札を示して、現在どの場面かわかるようにという配慮。まあ言ってみれば、そういう解釈もできるかなぁっていう程度の話なんですが、私は逆の意味で面白かったですニャー。っていうのは、音楽を演奏する際には何かイメージを持って弾きますね。場合によっちゃまとまりのあるストーリーってこともある。でも普通、演奏家はそれを晒さないですよね。つまり自分の中に秘めておく。そうすることで、音楽にバックボーンを与えることができるわけですが、武久のこの日の演奏では、自分の内面をあえて白日の下に晒してみて、どういうことになるのか、自分でも試してみたかったんじゃないでしょうか。クーナウの後任であるバッハは、声楽曲ではすばらしい描写力を発揮しましたが、純粋な器楽曲で描写音楽というとカプリッチョぐらいですよね? たぶん。シャコンヌにオルフェウス伝説をくっつけるのは無理矢理なこじつけかもしれませんが、演奏そのものの面白さ、確かな編曲の腕前を堪能させてもらいましたです、ハイ。