カナディアン・バロックオペラ・カンパニー
モーツァルト 「ドン・ジョヴァンニ」

指揮: アンドリュー・パロット

2000年6月2日 新国立劇場中ホール


(デデのひとりごと---ぶつぶつ)

カナディアン・バロックオペラ・カンパニー オペラ・アトリエという、やたらと長ったらしい名前を持ったグループのドンジョヴァンニを観てきました。独唱陣は英・米・加を中心とした若手。オケは時代楽器のアンサンブル。指揮者はタヴァナー・コンソートのアンドリュー・パロットというわけで、さほど期待もせずに出掛けたんですが、やっぱり、それ相応の舞台でしたニャー(=^^=;;

イングリッシュ・ナショナル・オペラが翻訳した英語による上演でしたが、この英語たるや、ところどころにシラブルを合わせるためにイタリア語をちりばめた、シェイクスピアも斯くやと言わんばかりの格調高い訳文。たとえば、ドン・ジョヴァンニに刺されて倒れている騎士長の顔を見つめて、ムスメのドンナ・アンナがつぶやくセリフは“What a poor complexion!”。まあ、悪くはないですが・・・

ところで、舞台両脇に表示される日本語字幕の方はと言うと、たとえば、有名な「カタログの歌」の最後、「・・・ただの、どすけべぇ〜、ただの、どすけべぇ〜」。確かにそうですニャ。村人をしこたま酔っぱらわせようとする宴会の場面では、「フラメンコにボレロに盆踊り、みんな女に踊らせろ〜」。これもまあ、悪くはないですけど・・・

フィガロとこのドン・ジョヴァンニ、それにコシの台本を書いたのは、カトリックの破戒僧ダ=ポンテ。この人、実はウィーンの宮廷詩人を首になった後、流れ流れてニューヨークまでたどり着き、彼の地で初めてイタリア語塾を開いたという、まあ、まんざら英語と縁がないわけでもないような、あるような、ムニャムニャムニャ。

ところで、実を言うと、始まってしばらく何語で歌っているのかまるでわかりませんでしたニャー (=^^=;;  プログラムをちゃんと読んでおけばよかったんですが。まあ、それほど違和感無くモーツァルトの音楽にシェイクスピア風だかディケンズ風だかの言葉が乗っていたということでしょうか。いや、ちょっと違うなあ。まるで、言葉が聞き取れなかったと言ったらよいでしょうか。普通、ヴェルディやプッチーニ、ワーグナーもそうかな? まあその手のオペラの場合、歌詞を聞き取るというのは至難の技。これはガイジンだからというわけではなくて、ネイティブの人間も同様。日本語のオペラやら歌曲を聴いたことがあるひとならわかるでしょ? だからあちゃらの小屋でも、「リブレット〜! リブレット〜はいらんかえぇ〜!」と大声を張り上げて、台本を売って歩くオッサンがいたりするわけですニャー。そんなものを買ったって、もちろん英訳が付いているわけじゃない、まして日本語訳なんて夢のまた夢。

何が言いたいかというと、近代オペラでは、言葉が音楽の端女に成り下がってしまっているということ。まず音楽、言葉はその次って言うと、なにかサリエリ風ですが、英語上演という奇妙な体験から、こんなことをしみじみと感じたわけです。もっとも一昔前なら一流どころの小屋でも(というか、一流の小屋だから?)、歌手の国籍によって、一つの出し物の中でイタリア語、フランス語、ドイツ語が入り乱れるような上演というのがありました。(今でもあるのかなぁ?)まあともかく、言葉は二の次になってしまった近代オペラですが、でも、古楽器を使って小編成のアンサンブルオペラをやるとなれば、自ずと言葉に対する期待も高まるもの。そこらへんが今回はかなり、残念でしたニャー。

オペラの祖といえばモンテヴェルディ。フィレンツェの人文主義者のサロンでの青臭い議論を経て、オペラが誕生したと言われていますが、そこで生まれたパルラーレ・カンタンド(歌で語る)という様式から、いつの間にかカンターレ・パルランドに逆転してしまったわけです。これ、グルックのオペラ改革を経ても変わらなかった。というのか、本当は現代の演奏がそういう様式に成り下がっていると表現した方が適当でしょうか。モーツァルトはウィーン時代の初期にグルックをほとんどパクって「後宮からの誘拐」を書きましたけど、残念ながら音楽はグルックの方が遙かにすばらしい。でも、言葉は?

時代楽器を使ったアンサンブルオペラだったら、もっともっと歌手の生き生きとした表現が前面に現れていいはず。ところが、やはり肝心の歌手達が大劇場様式の呪縛にはまってしまっていたのが非常に残念でした。せっかくモーツァルトの時代にタイムスリップできると思ったのに・・・。これは歌い手さん達だけの問題じゃないようです。指揮者パロットが作る音楽にまるでメリハリがない。もっと、芝居の進行に即した音楽の作り方があるはずなのに、ただ心地よく流れるだけの凡庸の極み。ちょっときつい表現になってしまいましたが、今回の失敗上演の責任のすべてはここにあります。つまり、ストーリー、展開、あるいは言葉そのものと言ってもいいですが、パロットの指揮は、そういった舞台の上での進行にはまるで無関心。ひたすら流れの良い音楽を目指していましたニャー。これではせっかくの上演形態がまるで生かされません。あのような指揮をするんだったら、大劇場でモダンオケを使って、ギャラの高い歌手を揃えて好き勝手に歌わせるという、普段見慣れた上演形態をとったほうがずっとうまく行ったはずです。

演出に関してはさほどのことはありません。コメディア・デラルテの正統的演出と言えばおわかりいただけるでしょうか。歌手陣の中では復讐心に燃えながらも、それでもやっぱりドン・ジョヴァンニはええ男やわぁという気持ちが抑えきれない、心中の葛藤をみごとに表現したドンナ・エルヴィラ役のメレディス・ホールに拍手。マゼットの歌手はプロレスラーみたいでしたニャ。「ぶってよマゼット」って、ホントにぶったら、ヒクソンも気絶しそうだっ。騎士長のゲイリー・リライアは深みのある声でお化けの役を好演。オケでは弦楽器はそこそこ健闘していましたが、やっぱり管楽器はねぇ。カレイドスコープのように、あでやかな音色の管楽器が飛び出してくるところが古楽器オケの魅力なんですが、新大陸だけでメンバーを揃えようとするとかなり無理が出ちゃいますニャー。まあ、揃ってはいましたが・・・というわけで、カーテンコールもあっさりと終わって、なんだか拍子抜けした気分。オペラに付き物のブラボー屋さんもほとんど出張ってこなかったみたい。

ところで、二国の中ホールって響きがすごくデッドですニャー。音楽をやるホールじゃないみたい。それとサッコのところで、チェンバロがやけに響くニャ?っと思ったら、ちゃんと楽器の中にマイクロフォンが突っ込んででありました。休憩時間にめ〜っけ (=^^=;;


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