クレマン・ジャヌカン・アンサンブル “ラブレーの大饗宴”

出演:ドミニク・ヴィスとそのお仲間

演出:ジャン=ルイ・マルティノティ
衣装:ダニエル・オジエ
装飾・小道具:タマラ・アドルフ
照明・舞台:ジャン・グリゾン

2000年10月12日 紀尾井ホール


(デデのひとりごと)

いつもすばらしいハーモニーと、軽妙な歌い回しで楽しませてくれる、アンサンブル・クレマン・ジャヌカン様御一行。今回はいつもの演奏会とはちょいと趣を変えて、ビジュアル指向。実は、数年前にも、マドリガル・コメディーという題名で、軽業師やら豪華な(?)楽隊なども交え、バンキエルリのマドリガーレなどを歌いつつ演技するという出し物をやったことがあるんですが、この時はまあ、初めての試みというわけで、イマイチしっくりしない部分がありました。

今回の出し物は“ラブレーの大饗宴”。といっても、「ガルガンチュワ」を芝居にして見せようというわけじゃありません。それにたぶん、歌われたシャンソンの類にも、ラブレーの詞を使っているというのはないはず。じゃ、「なぜラブレーなの?」というと、それは、「気分じゃよ、気分」。

え〜と、お品書きはと言いますと、ジャヌカン、ラッスス、セルミジ、クレメンス・ノン・パパ・・・とまあ、ほとんどが16世紀前半のシャンソンを20曲ほど。好きな人にはたまらんですニャー。おっと、ネクラなレストカールの曲もいくつか。演奏はどれもこれも生き生きとして、これぞシャンソンという小粋な楽しさに満ちあふれていました。だけど、それだけじゃ、いつもの演奏会と同じ。今回はこれにさまざまな趣向が凝らされていました。

まず、開演のだいぶ前からリュート弾きが一人、舞台上で即興演奏をしています。お客さんはその演奏を聞きながら席に着きます。舞台の中央奥には、粗末な祭壇。舞台上には7つか8つほど、大きな行李が置いてあります。それに古風な譜面台がいくつか。時間になって、ネズミ色の修道士の服を着た面々が登場。中央の祭壇に向かって、敬虔な(?)祈りを捧げます(ジャヌカンのミサ曲「戦争」)。誰かが間違えて歌い直したりとか、ここらへん、まじめにやればやるほど、滑稽さがにじみ出てきましたニャー。全曲やるかと思いきや、キリエを歌い終わるや否や、鈴が鳴って、「昼飯だぁ!」(ラッススの「もう昼だ、さあみんな」)。

全員歌いながら楽しそうに昼餉の準備。行李を開けると、まあ、出るわ出るわ、ご馳走の山。ちなみにメニューをご紹介しましょうか。コンペールの「俺たちゃパブアンの修道士」によると、まず、ワイン。それから、若鶏、スープは卵黄入り、牛肉、こってりとした羊肉、薫製ニシンのサラダ、鳩のパテ、ウサギのロースト。う〜、喰ったぁ。やっぱり、修道院てのは、んめえんだなこれが。特にベネディクト派なんてぇのは、そりゃもう美食の権化。と、まあ、ここらへんで強引にラブレーと結びつけるわけであります。

どこからか「パリの物売りの声」(ジャヌカン)も聞こえてきました。これもまあ、うめそう。でもブタは喰わねぇんだな、これが(セルミジの「ボクは決してブタは食べない」)。そうこうしているうちに、いつの間にやら修道服は脱ぎ捨てて、どこぞのオッサンといった服になっています。布地は高価ですから、へそ出しルック。まあ、中世ならずとも、地下街や、公園でよく見かける雰囲気の礼装であります。舞台中央手前には食べ物の山。歌いながら、これをまた祭壇風に飾り立てます。奥にある修道院の祭壇よりもずっと立派。でも、喰うだけじゃね・・・というわけで、次は酒。そりゃそうですニャー。修道院と言えば、酒とは切っても切れない深〜〜〜〜い縁があります。そんなわけで、飲むわ飲むわ(セルミジの「ホイ、ホイ、ホイ、飲むぞ」)。不思議なことに行李を開けると、酒がいくらでも出てきます。たちまち空き瓶ゴロゴロ状態。ここでも舞台上手に酒瓶、ジョッキ、グラスの類で祭壇が出来上がってしまいます。

喰って飲んだら次は、食後の睡眠。ぐ〜ぐ〜ぐ〜ぐ〜(デ・カストロの「眠っているとき」、ジャヌカンの「毎晩君は甘い夢の中で」)。

突然ですが、おーい、朝だぞ〜(ジャヌカンの「起きなさい、眠っている人たちよ(鳥の歌)」)。まあ、喧しいこと。寝起きが一番悪い人は、カッコーのお面を被せられて、「コキュ、コキュ」とはやし立てられます。

 

さて、食欲と睡眠を満たしたら、次は何でしょう? ええ、当然あれですよね。もちろん、トイレ。ん? 違うって? あ、いけねぇ。もちろん、アレです(ジャヌカンの「美しい乳房」)。ね。これがなくっちゃ、ジャヌカンもラブレーもあったもんじゃない。やや縦長の行李から一枚の絵が。そして、もう一枚(コストレの「比類のない唇」)。そしてまた一枚(ベルトランの「ミツバチが作るものより甘美なこの微笑み」)。まあ、出るわ出るわ。今度は舞台下手奥に、美の祭壇が出来上がりました(上の右側の絵、向かって左がカルヴァン派の総帥であったアンリ4世のメカケ、右がその妹ってことになってるんですが、この二人一体何をしてるんでしょうニャー?)。そうこうするうちに、ちょっと不気味なやつも。うん、メメント・モリ(死を忘れるなかれ)ですニャ。

  

メメント・モリといえば、何と言ってもそうです、戦争です(ジャヌカンの「マリニャーノの戦い(戦争)」。乞食坊主だって命を張って傭兵稼ぎをやれば、一攫千金も夢じゃない。行李の中からは鎧兜、刀、鉄砲、ピストルまで出てきます。でもこれは歌の中のお話。だからすぐに白旗が揚がって敵方は降参。となればあとは略奪し放題。まず金目のもの。次に女(ジャヌカンの「恋の戯れを知りたい娘がおりました」、コステの「乳首のつんと尖ったあの娘」)。うわぁ、これで、行くところまで行っちゃったよ。

でも、隴を得て蜀を望むのが人の常。もっともっと獲物が欲しくなる(ジャヌカンの「狩り」)。(ネコは奥ゆかしいものよのぉ。)行李から出るわ出るわ、今度は剥製の数々。ニョフ、ニョフ、ニョフ。犬コロが追いかけるのは可哀想なキツネ。坊主の数珠がいつの間にやら犬の鎖になっています。犬を操るのはリュート弾きのベロック氏。5人は這いつくばって歌いながら、キツネに襲いかかろうとします。これだけ大勢で駆り立てれば、キツネはいちころ。その上、カモや、鵞鳥まで。舞台下手の手前には、剥製を集めた祭壇が出来上がりました。

さーて、この世の悦楽の限りを尽くした面々。そろそろ修道院に戻るお時間ですよ〜! 

信仰は天にあって
この世にはないから、わからないのだ
信仰の座るべき椅子に代わって据えられているものが
無節操、偽誓だということが
(レストカールの「死は滅ぼされたが、この世は生きている」)
メデタシめでたし。斯くして神の救いばかりか、人間の行為までもがすでに定められていたという、壮大なパラドクス(二重の予定説)が収斂したわけですニャー。実はですねぇ、世俗の快楽も神様が定めていたのですよ。まあ、この時代のフランスにプロテスタントの影響が如何に強かったか、これらのシャンソンを見聞きすることによって、深く実感したという次第。演出のマルティノティによるプログラムでは、最後にラッススの「ある若い修道士が」が歌われることになっていたんですが、どういうわけかカット。まあ、そうでしょうね。レストカールの曲の後で、「体を揺らしてはいけないわ、修道士さん」てな曲をやったら、やっぱり、ナンチャッテですからニャー。

さてさて、全体を通して、大道具というものは全然使われなかったんですが、例の行李のなかから、出るわ出るわ、コルヌコピアですニャ。とにかく小道具が凝っていること。照明も、ブルーからオレンジの間の淡い色使いで、まるで泰西名画を見ているようでしたニャ。いや、ともかく、実に楽しい1時間半でした。


もひとつ、くどいようだけど、プログラムの解説文の翻訳者。じゃじゃ〜ん、また登場だよ、松田啓子。もう少し日本語を勉強せい! 
「人生が安易な快楽によってもたらすものへのこの恐るべき食欲は・・・」

「最大の享楽のときには、ルネサンス人は、人間は依然として神の意志の道具であること、そして自己の自由さえも神からの贈り物であることを忘れない。」

「尻軽娘のこの引き締まった白い乳房も、灰燼に帰するだろう骸骨を残して死の中へと消え去る前に、時とともにいつかは衰えるだろう。」

書き出すのも馬鹿らしいけど、金を取って売るプログラムにこんな文章を書いて恥ずかしくないかねぇ。


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