はじめに

 私が都立大に入ってから一番情熱を傾けてきたものに、少年サッカーのコーチのアルバイトがある。サッカーが好きであり、尚且つ子供の好きな私にとってこの4年間を振り返って見ると、このコーチの仕事に携わってきたことで大学生活も楽しく過ごすことができた。また、コーチしたチームも多摩市では強豪のチームで、且つJリーグの下部組織であるクラブのジュニアユースにテスト合格するものもいて、私自身としてはやりがいを感じられる場が与えられていた。実際の指導は、監督が行うものの、私にもかなりの権限が委譲されており、私も積極的に子供達の指導、それから子供達が楽しくクラブを続けられるような雰囲気をつくろうと努力した。実際のところ、監督である内田氏をはじめ、幼体連の理事長である二宮氏、ほか各指導員の方々からとても厚く信頼をされ、さらには子供の父兄の方々からも非常に暖かく見守ってもらえたことは大きな喜びであった。
 しかしながら、こうして私がコーチをしているなかで、常々問題に感じていることがあった。今日の少年サッカーは社会現象とも言うべきサッカーブームと相まって、非常に拡大する傾向にある。ところがそのなかでさまざまな指導における問題点が生じているのだ。ゆとりのない指導、子供の心理を考えない厳しい指導、使い過ぎ症候群、などがあげられる。また、指導に限らず、少年サッカーにかかわる人々の「勝利至上主義」の意識が批判されている。サッカー雑誌や市販の少年サッカーの指導書が現在ではさまざまに出ているのだが、そのなかでもやはり「勝利至上主義」や、サッカーのプレーに対する、指導者や親たちの叱咤が批判されている。にもかかわらず、未だに子供たちが試合をしている場では、指導者の激しい叱咤が聞こえ、親たちの加熱ぎみな応援や叱咤が頻繁に見られるのである。
 こうした状況は、悩むべきもう一つの社会現象を生じる恐れがある。たくさんの子供たちがそのような問題を抱えるような場で、指導を受けているということから、健全な子供が育たないのではないかという恐れである。サッカーがブームとなっている今、こうした問題が社会現象化する恐れは十分にあるのだ。また単純にサッカーのみを考えてみても、義務的で厳しい練習のために、サッカーを「楽しむ」ことができていない状況が多く、将来的に有望な選手がそのような場からでてくるのかという疑問も生じてしまう。なぜこのようなギャップ、あるいは問題点が生じてしまうのであろうか。このギャップを埋めるにはどうしたら良いのか。そこで組織論的に着眼して、解決法を見い出してみようとこのように論文のかたちで書いてみた訳である。
 また、私がアルバイトをしていた「コーチ」という存在は、監督のように、勝敗や、子供の躾についてなど、さまざまなクラブの課題に対して最終的責任を負う存在とは異なってくる。さらには、子供達や、その親から見ると私の存在は「いい兄貴分」のような存在であるという。しかし、それを具体的に、かつ理論的に分析するのはなかなか難しいものであり、スポーツの分野においても、私のような立場の人間を定義するのは難しいであろう。それはオーナーでもなければ、チームリーダーでもなく、監督でもなければ、先生でもない。そこで問題点の解決法をもとに、最終的にはチームにおける「コーチ」の必要性と、望ましい「コーチ」のあり方を具体的に述べるのが、私の論文の目標である。具体的な話になると、とかく自分の身近なケースを取り上げることが多いので、例外をもとに反論できる部分もいささか生じるかもしれない。だが、できる限り普遍的な結論を導き出したい。また、卒業論文にしては珍しいテーマではあるが、これによって、今までたずさわってきた永山F.C.の監督、内田光義氏や幼体連スポーツクラブの指導員の方々、そして私の大切な教え子達に残す何らかのメッセージとなればよいと考えている。


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少年サッカー指導コラム「はじめに」
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