第2章 指導における問題点
2−1指導における理想と現実のギャップ


 では、現在の時点で、少年サッカーの指導に求められている理想とは、一体どのようなものなのだろうか。具体的な例をここであげてみたい。その上で現実について考えてみよう。私が読んでみた少年サッカーの指導書のなかに、前の項の事例でも取り上げたが、日本サッカー協会強化委員長である加藤久氏著の「少年サッカーの指導」がある。サッカーブームに従って様々な少年サッカーの指導書が出版されているが、なかでもこの指導書は私も、永山F.C.の監督である内田氏も、非常に有効な指導書として関心を寄せている。技術的な練習方法などは、他の指導書を参照しても良いとは思うのだが、この指導書の良さは、少年期の特徴的な体の発達や心理的な面を詳しく扱っており、それをもとに、子供たちを指導する上で陥る、「勝つ」ことと「育てる」ことのどちらを優先させるかというジレンマにたいして、望ましい「指導の理念」について示している。ぜひ、勝利至上主義的な指導者に読んで頂きたい書籍ではある。
 ここで挙げられている指導の理念のうち、象徴的なものを紹介してみよう。

 「子供たちが、サッカーというスポーツに生き生きと取り組むことができるように、指導者は常に自分があずかるチーム(集団)の雰囲気に気を配る必要があります。
 それは、チームの雰囲気というものが、子供たちのサッカーに取り組む意欲に大きく影響するからです。・・・略・・・子供たちにとって“サッカーをする時間がいちばん楽しい”というふうになれば、チームの雰囲気は俄然活気づいてきます。
 サッカーの楽しさとは何かということを考えたとき、楽しさの内容は様々です。それらは次のように分類されます。

  1.体を動かす楽しさ
  2.できないことができるようになる楽しさ(技術を高める楽しさ)
  3.指導者や仲間に認めてもらう楽しさ
  4.ライバルに勝つ楽しさ、試合に勝つ楽しさ
  5.仲間や指導者と協力する楽しさ
  6.自分自身に打ち勝つ楽しさ

 これらの楽しさは、子供たちの年齢、技術水準、体力、心理的発達の度合などによって違ってきますが、いずれにしても、1人1人の楽しさの中身が何なのかということを的確に把握して、それをうまく引き出してやるようにします。」
 「少年サッカーの指導では、“ゆとり”が不可欠だといわれます。“ゆとり”とは何かというと、時間的な余裕ではなくて、子供たちの自由な発想や意欲を妨げないということです。
 自由な発想や意欲は、教えすぎたり、ノルマを与えすぎたりすることによって妨げられます。
 ドイツのフランツ・ベッケンバウアー氏は、『小学生年代では、戦術的な要求を与えすぎないようにすることが大切だ。そうしないと個性的な選手は育たない。』と語っています。・・・略・・・なぜそうなのかといえば、小学生年代では自分で考え、決断してプレーする習慣を養うことが大切だからです。ああしろ、こうしろ式の指導では、自分で考えたり決断したりする力が伸びないのです。
 では、なぜ小学生年代に教えすぎてはいけないかというと、脳が急激に発達するこの時期に、言われたことだけをやって、自分で考えたり決断したりすることがなければ、思考したり、判断したり、想像したりする部分の脳が発達しないので、結果的に意欲や想像力に乏しい人間ができてしまうからです。 ・・・略・・・人間が自分の意志で考えたり、創造したり、意欲を起こしたりする場所は、脳の耳から前の「前頭葉」と呼ばれる部分です。
 実は、この「前頭葉」は5歳から11、12歳まで、つまり小学生年代に急激に発達するのです。・・・略・・・指導にゆとり(考える間)が必要な理由はここにあるのです。」
 「正しい技術、さまざまな種類の技術、基本的な戦術、そしてフェアプレーの精神をしっかりと身につけさせ、将来子供たちが伸びるための土台作りをします。
 少年期には、体力や闘志の力で“美の要素(技術、戦術、フェアプレーによって構成されるサッカーの芸術的な側面)”に優れたチームや個人を簡単に負かしてしまうことがあるので、勝つために“体格のよい子”や、“体力のある子”を中心にチームを構成してしまうことがあります。しかし、少年期には“美の要素”がどれだけ子供たちに根付いているかという観点で指導を行うようにしたいものです。
 目先の勝利にとらわれず、10年後に勝てる要素を少年期に養うようにしましょう。」


 ほかにも、少年の意欲作りの上で、「参加意識」を芽生えさせること、そのためには、「言葉がけ」が必要なこと、指導者が子供に対して否定的態度をとることの批判、子供の個性をしっかり把握し、その個性を育てるために、長所を伸ばす指導を心がけること、ほめることの大きな効果などが取り上げられている。たった一つの少年サッカーの指導書を読んでみても、指導に関してこのようにいくつもの理想が掲げられている。また、指導書の中でも、サッカー雑誌でも、指導の現状に対して多くの批判がなされている。それは今まで述べてきたような勝利至上主義批判や、クラブを存続していく上で重要となる、実際にそこでサッカーをしている子供たちの「楽しさ」に結び付かないような指導に対する批判にほぼまとめられてしまうのである。
 こうした理想に対して、その理想を追求するような指導が行われているかと言うと、現実はそうではない。理想が掲げられているにもかかわらず、指導者の指導の現場では依然として変わらないのである。また、何らかのそうした批判の記事を目にしたとしても、試合の場においては、激しい口調で選手を叱咤するコーチの姿を目にしてしまうのである。また、仮に指導者が熱くなっていなくても、その場の親の加熱ぎみな応援に焚き付けられて、つい厳しい言葉を投げかけてしまうこともある。そうした現実を、指導者のアンケートから探ってみた。
 私がアルバイトをしていた幼体連スポーツクラブの指導員は東京都西部・神奈川県などの各地十数ヵ所にて少年サッカーの指導をしているが、アンケートをとった限りでは9割以上の指導者が子供に対しての信頼を寄せている。ところが、実際、信頼こそすれど、子供に対して褒めるのと叱咤するのとでは7割8割で叱咤することのほうが多いという指導者が半数近くいることがアンケートには出ている。信頼をしているにもかかわらず、なぜ子供に厳しい言葉を浴びせるのだろう。子供の立場からすれば、信頼されているはずの指導者から厳しい言葉が聞かれるのだから、多かれ少なかれショックを受けるのではないだろうか。
 そして、指導者も子供を信頼した指導を一貫して行えないというジレンマに陥ってしまっている。私が求めたアンケートでは、さらに、指導において叱咤したり、厳しい指導をしたりしていながらも、子供たちを信頼している指導者に、子供を信頼していることを十分に説明できるだけの一貫性があるかどうか答えてもらい、あると答えた指導者には説明も要求したが、残念ながら半数以上が無回答であった。「信頼関係が成り立っているからこそ、信じているからこそ、厳しく言えるんだよ。」と言うパラドキシカルな言葉も指導の場で聞かれたことがあるが、はたして子供が受け入れるだろうか。厳しい言葉を言われたショックと、その言葉とではどちらが子供の心に響くのだろうか。
 しかしながら一方で監督の立場上、非常にそういう面で辛いことも存在する。というのも、指導者、特に監督は、クラブにおける様々な問題、すなわち、子供をあずかっているということから生ずる、子供の管理や、躾などの教育に対して、最終的な責任を追うことになるはずの立場の人物である。とすれば、チーム内に問題のないよう、強力なリーダーシップによってチームを引っぱる必要がある。そこには多少の厳しさが存在することも止むを得ないのだろうか。


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少年サッカー指導コラム「指導における理想と現実のギャップ」
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