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WRITE IT LOUD!! ROLL OF ROCKS

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                        1996年10月11日開始

                                  火だるまG

第49回:1998年10月11日

TIME AFTER TIME/CYNDI LAUPER/83 IN SHE'S SO UNUSUAL

ベッドの中で時計の音に耳を傾けながら
あなたのことを思っている
いつもいつもの
こたえのない世界
思い浮かべる過去
暖かな夜
みんな過ぎ去っていった
山ほどの思い出
くり返しくり返して

時々あなたは私の写真を撮った
私があまりに早く歩くものだから
あなたは私に声を上げた
あなたが何と言っているのか
聞こえなかった
あなたが言ったのは
もっとゆっくり
それでは置いて行かれてしまう
でも置いて行かれたのは私だった
時計の針が逆に進んでいく

もしあなたが道に迷ったら
私を捜しに来て
くり返しくり返して
もしあなたが落ちてしまったら
私が受けとめる
私が待っている
くり返しくり返して

私の写真も色あせ
暗黒もセピア色に変わった
窓の向こうから見ているあなたは
私は大丈夫だろうかと心配している
奥底の秘密が晒され
ドラムビートが時代遅れになっていく


 派手な衣装を身につけた金髪の娘。スカートのも裾をからげて踊り狂いぬ。娘のステージは波止場の倉庫前。倉庫の扉にロベルト・クレメンテという文字。ロベルト・クレメンテ。ピッツバーグ・パイレーツの誇る史上最強の強肩ライトフィルダー。実働18年。3000安打。打点1305。生涯打率0.317。1972年12月31日。ニカラグア大地震被害者救済に向かいカリブ海の藻屑と消えし英雄。
 娘が叫ぶ「あたしゃぁロベルトのために踊っているんだ。彼の魂の安らかなることを」
 太ったボクサー犬のサムを連れたメクラのジョーがつぶやく。「畜生。目があいていたらなぁ。でも俺はロベルトは知っているんだ。俺がまだ目あきだった55年、エベッツで、ドジャースとの試合を見たんだ。それにしても、変わった娘がいるもんだ。」

 旧横浜大洋ホエールズの優勝の試合。見たいという気持ちはあった。
 10月8日木曜日。それが偶数日なら、私は店に出て甲子園へは出かけていない。8日深夜。店に客は2人。客がはねた後、アキラと3時まで飲む。私が甲子園に行くということが、同様の感性で旧横浜大洋ホエールズを嗜好してきたアキラに何らかの作用をもたらしていることは明白だが、それがどんな作用かはわからない。わかる気はするがとても、私が筆にできる思いではない。
 まだどこがXデーになるのかも皆目分からなかった近過去「優勝決定の試合が甲子園まで延びるようなら、店を休んで、工と3人で行こうぜ」 という私の申し出に、アキラは「いやいい。この間の広島旅行で充分だと思う。行かない」と言った。
 結局、その後、ゴールデン街に行って6時まで飲んだ。
 私は、もはや酒を控えなくてはならない状態にある。
「糖尿病になってから酒量を増やすという君はなんなのだ?」
 アキラがいつも言っている言葉。
 私はバカだけど愚かではない。それなりにコントロールできているつもりだったのだが。さすがにこの夏以来の飲酒は過剰だった。心はもっともっとといっているのだが身体が反旗を翻している自覚症状がある。私は別に死にたくはない。まだまだ欲望で一杯の身体である。だから私は酒量を1/4にしようと思う。飲む日を2日に1回にして、飲む酒をバーボンから焼酎に変える。計算上はそれだけで1/4になるのだ。
 それで身体が納得してくれなければ私は死にたくなるのかも知れない。
 5日の夜から6日の早朝にかけて、私が酒を飲むことは、アキラと飲んだのがバーボンであったことを除いては許容範囲のはずである。この法則は本日から始めたものであり、半分禁酒の初日は明日である。
 身体がふらふらなのに眠れない。どうせ新幹線の中で寝ればいいんだという気持ちもあるが、いろんなことが気になってしょうがない。寝ようかと思うと、薬を持っていくこと、本を持っていくこと、いくつかのアドレスを持っていくこと、先日の広島ツアーで3人の記念として購入したあの品物を持っていくことなどが、頭の中でウエイブする。私は寝る時にはアイマスクをする。最近はしていないが昔は耳栓もしていた。何かが思いつく度ごとに、アイマスクをはずし、私は跳ね起き、玄関の前に広げてある、出かける前の手順を書き付けたメモに書き加える。B4のメモがほとんど埋まっている。甲子園に旧横浜大洋ホエールズの優勝が決定する可能性のある試合を見物しに行くだけなのに、どうしてこんなにやるべきこと、もっていくべきものがあるのか?
 ふと、横を見ると大きなゴキブリがメモの前で正座する私の前で正座していた。私は殺生は嫌いだ。しかし病原菌を運んでいるゴキブリはしょうがない。目の前のサンダルをつかんでひっぱたくとゴキブリの白い内蔵が飛び散って私の口元にかかった。
 最低の気分である。
「あぁ、もういいや」
 フロアーを雑巾で拭き、雑巾をよくすすいで、しぼり、熱いシャワーを浴び顔を洗って私は寝た。時計は8時をさしていた。
 起床は11時30分である。朝食のシシャモを焼く。ネギを細かく切り、海苔をちぎる。シシャモ丼のできあがりである。他のおかずはない。冷たい麦茶だけで一気に喰らう。
 新幹線に乗る前に、2つの仕事をこなさなくてはならない。
 まず郵便局に行き両親に送金すること、それに金券ショップで新幹線のディスカウントチケットを購入することである。
 いぜん一緒に住んでいた女性に当座の生活資金、それに引っ越し代として、幾ばくかの金を貸すために、私は両親に借金をした。年に数回。細々と返しているのだが、昨日の夜、私は、甲子園に行く前にいくらか返そうと思い立った。どうしてそう思ったのかは、自分でも全然わからない。
 阪神甲子園球場前の駅に着いたのは夕方の4時50分だった。途中、出屋敷の駅を通過した時、ここが『赤目四十八瀧心中未遂』(車谷長吉)の舞台かと思って町を見渡したが、電車は猛スピードで駆け抜けてしまった。
 駅のホームから見おろすと、駅前の広場は雲霞のごとくの人人人で驚いたが、降りてみると、それは老婦人ばかりで、列の先頭の女性たちは「日本看護婦連盟XX支部」というプラカードをぶら下げていた。
 球場は混んでいないのだろうと思ったが、旧横浜大洋ホエールズ側のレフトスタンドは立錐の余地もないありさまだった。それでもどうにか、ポールの近くに、私はトイレから1分以内で行ける席を確保した。甲子園では3回の裏の攻撃終了時と5回の裏の攻撃終了時それに7回表の攻撃終了時の3回。グランド整備の短いインターバルがある。その間に速攻でトイレをすまそうという作戦である。
 自分の席を確保した私は立ち上がりまわりを見渡しブーコビッチを探した。ブーコビッチのことを急に思い出したのも眠りつけない昨日のベッドの中である。20年程前、私は毎年、年間に20〜30試合ほど、横浜大洋ホエールズの試合を見ていた。大学でファンクラブをやっていたのだ。アキラと会ったのもそこでだ。ライト側、レフト側、どちらにせよ横浜大洋側の外野席で、私は必ずブーコビッチを見かけた。ブーコビッチというのは、もちろん私が勝手につけたあだ名である。いつも紺のブレザーに灰色のズボン。もともと髪の毛の色素が弱いのだろうか? 白髪混じりの長髪と灰色の口髭。そして横浜大洋のキャップ。騒ぐでもなくはしゃぐでもなく、試合開始ギリギリに現れ気がつくと消えている謎の男、ブーコビッチ。私は試合開始まで何度も何度も繰り返して当たりを見渡したがブーコビッチは見つからなかった。私が20歳の頃彼は40歳だった。私は今年で40歳になった。彼は生きているのだろうか? それとも彼は5年前、ホエールズという名前がこの世から消滅した時にきっちりと旧横浜大洋に見切りをつけたのだろうか? 結局、私にはそれができなかった。
 ちょうどレフトスタンドの向こう、大阪湾上のあたり、甲子園の夜空に星がたったひとつだけ出ていた。アキラが一緒なら、きっと彼も、この星に気がつくだろうと、私は思った。美しい星であった。
 優勝した。私は最後まで球場に座っていた。係員に追い出されて立ち上がった。外では応援団が騒いでいた。店に電話した。
 店は、今日もまた客が2人しかいないという。
「たいへんなことだ」
 私の言葉は旧横浜大洋の優勝をさしたものだったのだが、アキラは店の惨状を指したものと受け取ったかも知れない。
「ゆっくり帰ってこいよ」アキラがそう言った。
 私は真っ直ぐに帰ろうと思い、大阪駅の桜橋口に直行した、深夜バスに乗るためである。
 深夜バスの乗車上には、旧横浜大洋のキャップをかぶった男女が300人ほどキャンセル待ちで並んでいた。10個並んだ公衆電話のブースで旧横浜大洋のキャップをかぶった男女が一斉にビジネスホテル探しをしていた。
 私は桜橋口を離れて、もう一度梅田新道の地下街に入った。横町みたいな空間で串カツ屋が1軒だけ営業していた。生ビールと串カツ3本、それにタマネギとうずらの卵を頼んだ。
 ビールを一気飲みした。2日に1回の法則が初日にして崩れた。
 1100円を払い。もう一度店に電話をして、アキラに事情を説明し、今日どこでどう休むことになるのかもわからないので、明日金曜日の早番を代わってもらうお願いをする。快諾を受けて少し気が楽になる。
 104でYにあるスナックMの電話番号を調べる。Yさんに「今年の建国記念日に一度お会いしている東京の若い衆です」という「あぁ西川君ね、どうしたん? 大阪に来てるん、ほな来たらええやん」と言われる。
 Yさんはとても10歳のお孫さんがいるとは思えない溌剌としたヤングウイドウである。今年の冬、バイトの関係で私はYさんと知り合い。好きになってしまった。これもまた説明不能の感覚なのだが、バイタル、という感じなのだ。私は生き生きとした感覚が大好きである。
 地下鉄で阿倍野まで出て近鉄線でYの町に、Mの店内は近隣の溌剌としたオバンたちで一杯である。ウーロン杯を9杯飲む。隣のオバハンに「お姉さん。大阪ラプソディを聴かせてください」リクエストする。
「あの人もこの人も・・・・・・」実にいい歌詞だと思うのだが、なんせ歌詞カードを読んだことがないので覚えきれない。誰か歌詞を教えてください。
 朝まで飲ませてくれるとは思っていたが泊まって行けといわれるとは思わなかった。というのも嘘で、私はおそらく泊まることになるだろうと思っていた。しかし無茶苦茶うれしい。私が犬なら振り切れんばかりに尻尾を振っていることだろう。
「うちは遠慮する人はすかん」
「僕は遠慮しない人です」
 店が1階、2階がリビングと仏間とYさんの寝室、私は3回の客間用の個室のひとつに布団を敷いてもらった。4組の子供夫婦がいつでも泊まりにこれるように客室は4つ作ってある。
 昼に起きる。
 ブラインドを閉じることを忘れていたので部屋中光だらけ、ハレーションを起こしている。ブラインドのすき間から覗くと青空でトンビが回転の稽古をしていた。
 Yさんとご飯。肉じゃがに味噌汁それに牛刺し。
 ふたり差し向かいでご飯をいただいていると、まるで、岸恵子を前にした川口浩のような気分。私はいつかYさんを「姉貴」と呼んでみたい。
 世間話をしているうちに、昨日、Yさんが飲んでいたのがブランディではなく麦茶であったことを知る。思うことがあり酒はやめたという。
 あっと隙をつかれた気分。昨晩の梅田新道地下街での私の生ビールの一気飲みは、よし、東京に帰れないならやっぱりYさんに会いに行こう、Yさんに会うのなら飲まざるを得ない、という、気迫の一気飲みであったのだ。旧横浜大洋の優勝試合の間、私は、飲みたくて飲みたくて飲みたくて、しょうがなかったのだが、法則を軌道に乗せるためにどうにかこらえていたのだ、隣の若い女性のふたり組が、よかったらどうですといって、ワインをつごうとしてくれたのだが、いや、僕は飲めないのでなんていったんだよ。
 Yさんにお礼を言ってYの町を後にしたのは2時だった。
 途中金券ショップを探したり、もういちど、ナンバで串カツを食ったりして手間取ったので、新幹線が東京駅に到着したのはちょうど7時だった。
 私は満員の中央線に乗り新宿で降りマイシティの地下街に行きサバの開きを2枚と、長ネギ、トマト、それにアボガドを2個購入し、地下街を歩いて家に帰った。
 部屋に戻り、掃除をして、シャワーを浴び、10時30分に店に出ると、工がシャンペンを抜いた。
 店には客がたくさんいた。
 こうして、私の法則は2日連続して崩れていった。3日で1回の断酒では、もはや法則とはいえないが、何にせよ、私はいつでも出足のいいタイプではないし、私はまだ生きている。死んだわけではない。勝負はこれからである。
 私たちは、そのようにして、横浜ベイスターズの優勝を祝ったのである。


僕のこの歌詞にスポットをあてる連載で、取り上げる曲の音楽面が最高に格好いいことは保証します。大音量で10回続けて聴いてみてください。きっと感じるものがあるでしょう。(この企画、文章、考え方などの著作権は一応存在するといっておきます)

 

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