追憶の16号線/ハゲとの旅(PART1) |
文 :火ダルマG
絵 :渡部ハゲ真一
写真:通りすがりの見ず知らずの人々 または セルフタイマー
大学時代からの友人2人と一緒に、東京、西新宿で「最後のロックバー『コモンストック』」を経営している火ダルマG(=本名 西川宏樹 58'生)は、永遠の物書き志願を自称する者であるが、実をいえば、店を開いた1991年以来、これまで彼が書いたもので世にでたのは、店の開店時に共同経営者火ダルマA(=本名 飯塚彰 58'生)と共同で執筆した「ころがる石ころになりたくて」(清水弘文堂)という単行本1冊だけである。
「ころがる石ころになりたくて」のテーマは、今、この時代にロックバーを開くことの意義を世間に問うというものであり、それはそれなりのマスコミの反響を呼んだが、ふりかえり凝視してみれば、著作のメッセージが評価されたというより、彼らの学歴・職歴が社会のワイドショー的な好奇心を瞬間そそったにすぎなかった。彼の8年間勤めた前職はいわゆる一つの大手の商社マンであり、Aは以前は大手都市銀行に勤務する者であった。
翌92年、彼は盛夏の参議院選挙の街頭演説をコレクションし、それをテキストに日本政治の構造的ナンセンスさ(内容的ナンセンスさではない)を浮き彫りにしようと試みる野心作「ころがる床屋談義」を企画、もう1人の盟友、火ダルマ工(本名=渡辺工 57'生)の編集協力を得て、93年春に原稿用紙500枚で脱稿、「ころがる石ころになりたくて」で知己を得た出版社の人々に押し売りをしてまわったが相手にされなかった。無名であることがネックのようであった。そこで推敲して開高健賞に応募してみたが落選した。元来「ころがる石ころになりたくて」の編集者でもあった渡辺工は、その後、遅れてきた共同経営者として「コモンストック」で赤ペンならぬ包丁を奮うこととなる。
そして、94年、彼は小説を書いてみた。彼は常日ごろ小説を書こうと思っていたが、俺に人様にお見せするほどの人間観があるかと自問する度に答えに窮し、それまで逃避してきたのである。それは「団地の野球小僧」という、高度経済成長時代に少年期を迎えた子供たちの日常を題材にした小品集であった。 「団地の野球小僧」は「コモンストック」のお客様10数人に読んでもらっただけで、どこの出版社にも持っていっていない。その作品は30枚ほどの短篇8本で構成されており、なんらかの形で投稿するためには大幅に圧縮する必要がある。彼は怠け者である。
てな調子で、彼は絶不調であった。これといってなにか書いてやろうという気もおこらないし、時代状況から完全に逸脱している「最後のロックバー」の経営は確実に衰退している。その上、深夜放送のラジオでロック番組のDJができそうだというバラ色の話も、不況を口実にするスポンサーに実現直前で逃げられ、文字どおり泡(バブル)と消えた。
そんなある日、どうしてそんな気をおこしたのか、店の客の1人であるハゲ(=本名 渡部真一 71'生)建設機械整備工(当時)が「僕もなにか表現をやりたいが、なにをしていいのかわからない。西川さんと一緒になにかをやりたい」と申しでた。その昔には、コスプレ系の同人誌でインディペンデント漫画を書いていたことがあるいうハゲは千葉県柏市に住んでおり、自家用車を所有しているという。
それはまさに千載一遇のチャンスであった。彼には、その11歳の誕生日に千葉県柏市から神奈川県横須賀市に引っ越した経験があり、以前より、いつか、その2つの彼の故郷を結ぶ環状線、国道16号線を一周しつつ、なんらかの創作をしてみたいという希望があったのである。
柏−野田−庄和−春日部−岩槻−大宮
39.3KM
俺とハゲは今、国道16号線沿い、千葉県柏市と野田市の境界点、利根運河にいる。初春の北風はいまだに冷たいが、陽光はさんさんで、大地を鈍角な彫刻刀で薄く切り取ったようなパノラマ地帯は夢のように穏やかだ。16号線の陸橋を行く車がぶーんというかすかな音をたてている。ほとんど水の枯れている細い運河の両岸にゴールデンレッドリバーの腹の毛のような柔らかい葦が繁茂している。
土手に腰かけたハゲは25色のペンテルクレヨンで遠くの森に見え隠れしている白いラブホテルを描いている。クレヨンの色がとてもきれいで、ハゲの「柏」というあのひとことから、この旅が始まるまでに要した3ヵ月の待時間の俺のイライラを癒してくれる。始まっちゃえば、それでいい。物事は全て、始まれば後は終わるだけ、終わりの悲しみがやってくるまで、その間をせいぜい楽しもうではないか。
葦の切れはしで肛門を傷つけないように気をつけてひねりだしたレモンイエローの俺の糞は、熱湯のように熱く、いつものことながらひどく匂ったが、30CMも離れてしまえば、ついさっきまで一心同体だったのが嘘のような、実によそよそしい風情である。馬鹿馬鹿しいとは思いつつも、別離という言葉が頭に浮かぶ。
商社マンをやっていたということもあり、これまでの人生において俺は地球のあちこちで糞を撒き散らしてきた。エジプト、エチオピア、セネガル、ギニアなどの異国で、それに少なくても10有余に及ぶ飛行機のトイレ、つまり空中で、俺は数多くの俺の糞たちと別離してきた。今はもう匂い温度はもちろん姿形さえ思い出せない俺の糞たちのことを思いだして、俺は少し泣きたくなった。
始まりには終わりが、生には死があるが如く、食うための人生とは裏返せば、糞をする人生である。衣食住と人はいうが、衣糞住とか衣食住糞とは人間はいわない。それは糞が象徴する人間のもう1つの真実(another side)に対する人間の欺瞞である。そんなに強い人間ではないが、俺はすべての欺瞞を憎みたい。この葦の草叢は人が歩く場所ではないので、いつか誰かが、今別れたばかりの俺の糞を発見するとは思えないが、もし見つけたなら、横に置かれたなん枚かのティッシュを見て、悲しい人間の営みを知り、涙することであろう。
社会の窓を閉じながら草叢から顔をだした俺にハゲがクールにいった。