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                     1996年10月11日開始

                               火だるまG

第11回:1997年9月11日

『二人が喋ってる。』/95/犬童一心


人間が生を受ける時に生まれ落ちるという表現を使うことがあるが、そこには人生が奈落であるという意味が含まれている気がするという俺は根暗だろう。
時間という空間に(よくわからない比喩だな)に放り出された人間は死という地面にたたきつけられるその瞬間まで、刻々と年老いつつ落ち続けるのである。
結論をいってしまっては実も蓋もないが、奈落の底へ向かう一直線の旅の間に人間ができることといえば、せめて、地面にたたきつけられることを運命として受け入れる覚悟を持つことと、矛盾しているようではあるが、その旅程をだれと弥次喜多するかということに腐心することにつきるのではあるまいか。
いや、その間に、なにをするかこそが大事だ、という、気丈な御仁もおられようが、なにかをした結果としての仕事も同様にみじんになる運命なら、なにかより、だれかの方が、死の瞬間の思い出をプレゼントしてくれるだけ大事な気がするのです。
くだらん例で申し訳ないが、大作家でも、死ぬ瞬間に自分の最高傑作の冒頭のモノローグが流れたりはしないだろうし、大音楽家でも自分のマルチヒットのメロディに包まれて死んでいったりはしないのじゃなかろうか? というのが僕の見通しなのですね。
さて、この映画は、ある女性漫才の、悲しい別れの予感を、つっこみ役がボケ役の運命をねじ曲げたとしか言い様のない、起承転結の起の部分の回想をプレイバックではさみつつ、転の渦中に匂わすというものであるが、もう飽きたというボケ役に対し、まだまだだというつっこみが、なんでやねん? なんでやねん? と詰問する言葉が奈落の暗闇に吸い込まれていく悲しい話である
たいへん悲しい話であるが、問題は、つっこみの問題意識は漫才をするためにボケが必要という一点張りで、ボケと一緒に生きていきたいから、漫才をしているのだというわけではないところが、もう一回り悲しい。
人間、なにを、を、だれと、よりも優先すると、当然のことだが、そのだれは、その目的さえ達せれば、だれでもよくなってしまうわけで、監督が企図したであろう、現代に欠けているといわれている濃密な人間関係の呈示は空振りに終わり、肥大した自我的欲望のみが傑出してしまったりしているのだ。だって漫才の続行のみが目的なら、やる気のない相方は、その阻害要因に他ならず、その相方に執着するつっこみは、論理矛盾をきたしているということになるでしょう?
ラストのシーン。殴り合いを経験した、転の渦中の二人は、それでも、まだ漫才をしている。しかし俺なら、つっこみに、「わかった。そんなら、しばらく漫才はよしにしよ。それで、次はなにをやる?」って、いわせるな。二人の情緒的な結合はそのレベルであることは充分その瞳と声と表情で十分に表現されているのだし、それこそが監督の狙いだったはずである。そして、そんなシーンがあれば、奈落の暗闇に一瞬裂け目ができて、そこに青空が広がったりもしたのではないか。


(この企画連載の著作権は存在します)

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