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                     1996年10月11日開始

                               火だるまG

第9回:1997年6月25日

『うなぎ』/96/今村昌平


ロックのページにある、WHAT IS AND WHAT SHOULD NEVER BE/LED ZEPPELIN(69 IN THE 2ND ALBUM)、 QUICKSAND/DAVID BOWIE (72 IN HUNKY DORY)の2曲の拙訳も併せてお読みください。
一言でいえば、現代は神の時代である。畏れの時代といってもいい、あるいは、あきらめの時代。違う言葉に置き換えれば、合理主義・科学主義の行き詰まり。
あぁ、こうして書いてみて、なんと平凡な言葉なんだろうと、吐き気がしてくらぁ。

ほんの二昔も前の、なせばなるであった精神が世間に暑苦しく渦巻いていた時代には、ならないことはどうしようもない、レットイットビーという、感覚は、かっこもよかったし、大きな声でしゃべったりすることが苦手だったり、おのれの欲望を振り回すことに恥じらい、や、違和感を感じる人間にとって、癒しの力を持つものであった。今回訳してみた2曲の言葉にも、そのような感覚が溢れている。音楽は音と言葉を合わせて味あわなければいけないにせよ、言葉だけ置くとまるで遺書のような2曲である。

さて俺が問題にしよう、と、思うのは、この映画にも典型的にあらわれている、まるで無限地獄のような精神としての自分が、運命にひきづられて限定的に行動する肉体としての自分を、遊体離脱して客観的に眺めているような、心の持ちようが、人間にとって、本当に、そんなに居心地のいいものなのか? ということである。
本当に運命は当為であり、人間の意志などは、そこに介在できないのか? といい変えてもいい。
この映画は、主人公が他の男と肉体交渉を持った妻を殺すシーンで始まり、そして、他の男の種を宿した、まだ肉体交渉のない女を新しい妻として迎えることが暗示されるシーンで終わる。
その二人の女の間の時間に、男はウナギのみを友とする。そしてそのウナギを沼に返して人間に復帰するという単純な構造である。
しかし本来人間復帰のフィナーレであるべき、ウナギとの別れのシーンが、俺の心に全然響いてこないのはどうしてなのだろう。おそらく監督はそのことを暗示しているのだろうけど、別に、殺されるの、2番目の女で、結ばれるのが最初の女でもかまわない、という感触があまりに見え見えで、人生なんていうのは、すべて順列組み合わせの運命サイコロゲームで、人間はそのゲームの中で、黙々と喰らい性交し死んでいくだけだ、という達観が俺をいらつかせる。

なんといっても、『にっぽん昆虫記』(63年)で人間は虫ころと同じだ、と、いいきった監督だ。その達観は本物だろう。本作『うなぎ』でカンヌでグランプリを取った際の言動も枯れたものだった。 神不在の時代へのアンチテーゼとして『神々の深き欲望』(68年)を撮った監督でもある。
しかし、元に戻るが、現代は神ばかりがこの世に溢れて、溢れた神が人間の居場所を圧迫するという、人間不在の時代である。
そんな時代に、人間は運命という大海をゆらゆら往く小舟である、というメッセージをもらって、あんたは嬉しいだろうか?
極論すれば、この映画で、人間を感じさせる、俺の場合、それは意志を感じさせるということになるのだが、そういうシーンは殺人と喧嘩の暴力のシーンだけであった。その源泉はじつにちっぽけな嫉妬で、それはそれで大変悲しいことである。これらの場面での、あからさまな所有欲は、達観から一番遠いもので、まるで、人間がものみたいに扱われている。ここにもまた、人間不在。
この映画にでてくる人間群像には、なにかを楽しむ、という力が欠如している。なにかを楽しむことのできない人間の溢れる時代が、神の時代なのだろうか?
しかし、本来、楽しみの種は、今のこの世の中にだって、ごろごろしているのだ、子供のころを思い出してみよ、なにもかもが楽しかったではないか。そして、年端もいかないガキどもは今でも、こんな時代でも、元気は元気だ。受験戦争や習い事の競争にまきこまれる前の、純然たる、子供の話です。
やはり達観は、人間の敵だと、俺は確信する。
ここで、またまたこの2曲に戻る。ぜひ音を出して聴いてくれたまえ。ゼップにもボウイにも、こういういいかたをこういう音楽にのせれば、絶対人はそれを格好いいと思うし、きっと、ぼんぼん女に持てるに違いないという、下世話な欲望に満ち溢れている。それにひきかえ、もうジジイだから関係ないだろうけど、こんなお経みたいな映画を作っても、女の人たちは一滴も濡れやしないだろう。

最後に、今村昌平衰えたりと思ったポイントをいくつか。
そんなにウナギを大事にストーリーを転がすつもりなら、主人公出所のシーンから自分でウナギのはいったビニール袋を、まるでライナスの毛布のように、後生大事に抱えさせるべきであろう。それとも、ウナギと彼との結びつきも、本当は偶然なのだという、話なのか? 今平は、そこまで悪党であろうか。
アレゴリーの使いすぎ。舞台の大きさなどで、拘束だらけの演劇じゃないのだから、そんなにポイントポイントに合理性を持つ必要なし。お弁当の多様など平凡。おそらく久しぶりの本編撮影なので、あれもこれもと、少年の無垢な心持ちで、詰め込んだのだろう。その心は好きだけど、それって、あなたの達観と矛盾していませんか? と問うてみたい気もする。

さて、さて、昔話になるが、俺が今平で一番恐ろしいと思った作品は『果しなき欲望』(58)であった。そこに登場する男たち、殿山泰司、西村晃、小沢昭一、加藤武、そして菅井一郎、それらすべてが、ひとりの女、渡辺美佐子と関係を結んでいた。そして、それらの関係にていねいなストーリーと必然性のようなものが付加されていた。男はみんな、その女に夢と執着を持っていた。しかし女は徹底的な人間不信で、金にしか興味がなかった。そして全員で殺しあって、みんな、死んだ。とても寂しい気持ちにさせられた。とても人間なんてそんなもんだよ、とは思えなかった。俺も若かった。しかし、彼らに、明確な欲望があった。それだけ人間的だったような、気もする。
俺は今、思う。人間は、時空間という無限の中で有限な運命を生きる悲しい生き物である。しかし、人間には喜ぶ、楽しむ、信じるという、意志の保有が許されている。心の持ちよう、WHAT SEEMS TO BE IS ALWAYS BETTER THAN NOTHING 。たとえ、人間がそんな生き物であっても、別に悲しむ必要、元気がなくなる理由はないのである。ただただ死ぬまで生きればいい。あれ、これって達観?


(この企画連載の著作権は存在します)

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