ROCK BAR PRESS

 
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STILL ROCK LIFE

1999年12月30日/俺のいる形

これからロックを聴く君に書きます。

君は、万物が袋に覆われた種子であることを知っているか?

俺が、高校1年の春、1975年にディランのライブアルバムを手にしたのも、横浜ダイヤモンド地下街の三越の出口の前にあった、LAという名前の輸入版屋のレコードを包む袋にウインクされたからなんだ。LAの白地の袋にはハリウッドあたりの地図が、シンプルな青い線で描かれていた。

そして、シンプルな袋から飛び出たロックが25年間の流線型を描いて、俺の脳髄に着床、イメージが発芽していく。

さて、いきなり余談でゴメンねだけど、今現在の全世界を席巻している、情報技術の進展をベースにした、故なき優勝劣敗のアメリカナイゼーションの暴力的な猛威だって、揺り戻しが起こって、あと少ししたら、きっといい感じに収まるよ。例えば、ロックの歴史を振り返っても、ディランがエレキに持ち替え、ビートルズがネクタイをはずして『リボルバー』を発表するまでには、ずいぶん時間がかかった。その時点でたくさんの人がロックから離れていった。ジミ・ヘンドリックスやドアーズが出てくるのはもっと先。そしてまたたくさんの人が離れた。ビジネス、マネーの大声のネクタイさんたちが去った後の、ちょっと可処分所得が高いからここにいてみただけの人たちが去った後の、君たちの好きな情報社会はきっとやってくる。
なぜなら、こんな文章が書けて、誰かの目に留まる可能性のある場所はここにしかない。彼らは俺を無視することはできても、追い出すことはできない。俺は、パソコンやネットが、ロックと同じくらいのパワーを持つ、メディアだと感じているから、こうして君にあてた文章を書いている。
昔、ニール・ヤングという人が、ロックンロールは映画よりも、もっと、君のものを見る目を鍛えると、歌っていた。俺は、このページで、君の目を開きたいと思っている。
だって、もう、俺のまわりの一緒にロックを聴いてきたはずの奴らには、期待ができないんだ。刮目すべき(辞書引いてね)は、己の姿なんだけど、俺のまわりには、自分のことを棚に上げて生活している恥知らずばかりになってしまった。ネットにもロックをめぐって、いろいろな言葉が氾濫しているけど、別にネットの世界で言わなくてもいいことばかりくっちゃべりやがっているとしか、俺には思えない。だって、俺の耳にはロックについて語っているようには聞こえないのだもの。

書物で語るべきことは書物で。
喫茶店で語るべきことは喫茶店で。
飲み屋で語るべきことは飲み屋で。
ネットで語るべきことはネットで。
ロックで歌うべきことはロックで。

ロックはどこに行ったの? なんて言うのは、俺の独りよがりの感傷であることは、よぉくわかっているつもりで書いている。
俺より長い時間ロックを聴いてきた人も、今もバンド組んでロックミュージックの道に邁進している人も、老若男女、山ほどいるけど、このていたらくな現状を見ると、ロックのパワーも大したことがないとつくづく思う。
そう、音楽としてのロックなんて、大したことなかったし、今の時代のロックミュージックなんて、もっともっと大したことないんだよ。

でも、
俺がロックを聴いて、自分で見つけたメッセージ、自分自信の姿を見つめよ、というメッセージには、今でも力があると、俺は信じている。だからこうして君に書いているんだ。いい年して、少し恥ずかしいのだけどね。

高校生が、「俺のいる形」という曲を聴いてはじめに思ったのが、まんこのことだ言ったら、きっと君は、俺のことを軽蔑するのだろうね。君たちは、あとから別れる切れるで傷つけ合うくらいなら、うざったいからセックスなどしなくてもいいですと言う、世代なんて言われているしね。俺もそういう女性に一度神経をずたずたにされたことがあるけれど、あれは本当にそうだったのか?
俺は、当時、ただただ女の人のまんこに自分のちんこをいれてみたかっただけさ。興味津々(これも辞書)って奴。えっ、高校生でまだそんなこと言っているんですか、なんていう、そちら方の君たちの、大人系のつっこみはなしね。
それで機会を得たから、いれてみた。俺は、まず、その物理的な大きさに驚いたよ。目をつぶって、ちんこ全体の神経をとぎすませれば、その温度や液度は感じることができるけど、フィット感は長年愛用の右手には大きく劣ることに失望しました。あれは袋だね、とても大きな袋。
しかし今では、別の意味での大きさに毎回毎回驚いている。包容力というのかね。受容力というのかね。受け入れてもらっている時の喜びは何よりもまして大きい。懐かしい何か包まれていた、あの感じにもよく似ている。
そして、セックスを終えるたびに、君は、心洗われ、力をもらい、現世で己の人生に立ち向かっていこうと気になったりはしないか?

それで、当然、次の段階として「俺のいる形」という曲は、その、この世と俺との関係性を俺に考えさせる曲に変わっていった。
さぁ、自分の人生をどう生きようか? 社会の中でどう生きていこうか? いや、どう生きられるのだろう、さっぱりわからないが? という普遍のテーマさ。
これについては、死ぬまで結果がでない。死ぬ時には、人間、もっと、自分に対して甘くなるだろうから、結構、いい加減に生きても、不幸であっても、まぁまぁの人生だったと、思ってしまう可能性も高い。ようするに、死ぬ間際になって考えても手遅れということがいいたいのだけど。
でも、いつでも、自分を包む袋の居心地を点検すること、そして、居心地が悪い時には、なんとかして居心地のいい袋に、己を包む袋を変えてしまうことができないか、と、生きているか限り、考え続けることは誰にでもできるよね。

袋に覆われた種子は、袋を飛び出し、発芽するべきではないか?
俺たちは、お袋の、羊蹄系の袋から、わざわざ飛び出して、ここにいる。例え、時にそこに戻り生きる力を充電させていただいているとしても。(thank you women)

from the image of 『THE SHAPE I'M IN』
『Before the Flood』(Bob Dylan/Band)
リック・ダンコとリチャード・マニュエルに捧ぐ

 

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