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火だるまGのTHANK YOU REPORT


since 96.5.03

毎月3と9の日に僕のHEART AND SOULからお届けします。1カ月単位でバックナンバーに在庫していきます。

1997年8月3日〜1997年8月29日

8月3日 STOP AND THINKはジャイアンツ周辺から
  9日 ALONE**老婆心**TOGETHER(002)
  13日 ベストピッチにフルスイング
  19日 ALONE**老婆心**TOGETHER(003)
23日 A DAY AROUND BEANS
  29日 DO-SO-SIN MORNING RIVER WALK

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3日(日曜日)

STOP AND THINKはジャイアンツ周辺から

鬱陶しい暑さ、鬱陶しいニュース。いよいよ日本もどん詰まりと感慨に耽る毎日だが、それでも毎日、毎日、オンギャ〜ァと産声を上げて列に加わる子供たちのことを思うと、そうも、しらけてはいられないなと思ったり、どうせ知るもんかだから、思わなかったりもするけれどね・・・・・・。
さてさて、この現(うつつ)、まさにSTOP AND THINK の時間。もう少ししたら、完璧な老人社会に入って、直したくても直す体力なし、あとはただ、悠久の時間の流れに身を任せるのみ、エンマ様こんにちわ、になるから、実は、今こそが、ラストチャンスなのです。
おいおい、この親父、いい年こいて肩に力はいっているよ。だれか水持ってきてやれ〜。
しかし実は、ものごとは簡単なのよね。たしかに掃除には体力がいるけど、怠けないで、おかしいと思うことにはおかしいと、だからなんとかしましょうよと、いって、ちょっとずつ、なんとかしていけばいいだけなのです。ちっとも難しいことではない。だいたい人間というのは、死ぬために生まれてきた(=原罪ですな、御同輩、イヒヒヒヒ)といえども、不幸になるために生まれてきたわけではなく、不幸なことはよしにすればいいだけです。
物事を単純化するために、この際、日本で一番普遍的な話題にしやすい、野球チーム、東京読売巨人軍をまな板の広島カープにしましょうか? なんじゃらほい?


★首位から15ゲームも離されているチームの試合を毎日毎日テレビでもラジオでも放送して、しかも、各放送局がみんなそのゲームを放送しているというのは、おかしくないか?
★それが、シーズン前にすべての放送を予定だてしなくてはいけないという、代理店の都合からなら、売るのは野球放送という枠だけにして、毎日、あるいは毎週、その日の、その週の、もっともエキサイティングな試合を放映するという形にして、トータルにはプロ野球コミッショナーが管理すべきなのに、それができないということは、おかしくないか? 地方局はともかくアメリカの全国ネットはそれができている、どうして、それができないのか、おかしくないか?
★そもそも、各球団のフロント、セ・パ両リーグ会長、コミッショナー、みんな、企業の天下りとか、もと外交官、内閣調査室長、などなど、野球を知らず、愛さずの人ばかり、これはおかしくないか?
★日本の球場、人工芝とドームばかり、土の匂いせず、星を仰ぎ見ることもできかね、息苦しいことこのうえなしの閉塞感、これはおかしくないか? 本場アメリカでは、どんどん人工芝をはがし始めているぞ、どうして日本ではそうできない、これはおかしくないのか?
★笛と太鼓で同一行動を強制する、私設応援団という自意識過剰の馬鹿どもを、だれもが迷惑だと思っているのに、入り口で、その笛と太鼓を取り上げたりはしない(あとで返せばいいじゃないの)、これはおかしくないか?
★野球場で、大人もガキも、プラスチック製のミニチュアバットを振り回し、同じ動き、同じ声援、一点はいれば、マスゲームの万歳三唱、これは人間のやることか、俺には囚人の運動に見えるぞ、これはおかしくないか?
★ひいきのチームが負ければ、その1000円近くするミニチュアバットを、バカヤローと叫んでは、惜しげもなくグランド内にほおって帰る、石油資源の枯渇、地球温暖化、その他諸々のエコロジーなこの時代に、これはおかしくないか?
★ヒーローインタビューでは、いつも常套な、あの場面ではどんな気持ちでしたか?、それでは応援のみなさんにメッセージを、インタビューワーも、選手も、それぞれ、チンポやマンポに毛のはいているいい大人、これはおかしくないか?
★オールスターの始球式、やがては消えるウスバカゲロウみたいな、ジャリタレばかり、大阪ドームでやるなら、どうして千葉茂をよばぬ、児玉明利をよばぬ、神宮なら、どうして金田正一を、武上四郎をよばぬ。これはおかしくないか?
★去年のメーク・マジックや、日本シリーズで大活躍した、大森剛、今は二軍でセカンドを守らされるという、これは人間の尊厳の冒涜、おかしくないか?
★ルイスだヒルマンだカスティヤーノだ、遠来から異邦人を招き、一週間程度で結果見せねば、はいそれまでよでポイ、これはあまりに礼儀を失してはいないか、これはおかしくないか?

NOW IS THE TIME TO STOP AND THINK CAUSE I AM FED UP WITH CHILDISH REARITY

以上のような問題は、この日本のすべての場所に。
考えようよ、止めようよ。

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9日(土曜日)

ALONE**老婆心**TOGETHER(002)

例の酒鬼薔薇少年の事件に思うことは、ここ数年のうちに、日本社会に屈折したサディズムとでも呼ぶべき感情が定着したということである。自分がいじめられているから人をいじめる。しかもそうな場合、別にいじめられたくない人をいじめる。そのような力学の存在において、現代社会のサディズムは屈折しているのだ。

「外に出たいなと思うと勉強は? と言われ、くつを脱ぐ。寝ようとすると、まだ12時じゃない、と言われ、仕方なく勉強しているふりをする。昼休みに空をながめて考える。死にてぇ」
8月1日付・朝日朝刊、『今こそ子らと語り合おう』と題された『主張解説』に掲載されていた、中三男子の言葉である。
普通なら、このような子に対する親の言葉に愛を見るのだろうが、俺は、これってサディズムじゃねぇのかと感じてしまう。自分がなんのために生きているかわからないつまらない人生を生きているから、子とはいえ実は他人である人間に、その後追いを強制しているように見えるのだ。親って生き物は、しかもフェイタルな扶養という切り札を握っているから、たちが悪い。
「親の前では少し甘えて元気に。親戚や近所の人には、優しく、明るく。友だちには、のんびりした感じで。受験生だし先生にもよく見られたい。そう、自分を抑えすぎて、涙が出るくらい苦しいです」(同)
親戚や近所の人たちには、自分もどうせ対した人生を生きてはいないのだから、あんたもそんなに頑張らんといて、友だちたちは、自分もどうせ対した人生をいきられそうもないのだから、あんたもそんなに頑張らんといて、勝手に頑張ってえらくなったりしたらこっちが困るんよ、先生たちにも、自分もどうせ対した人生を生きてはいないのだから、あんたもそんなに頑張らんといて、といったような、他人の足を引っ張るような、屈折したサディズムがあるに違いない、と感じる俺の根性は腐っているのだろうか? もちろんこの中で最低なのは内申書というフェイタルな切り札を握っている、先生である。
そして、若くして、そのような悪しきネガティブな連環に染まりきった者が、自分より弱い、サディズムのはけ口を探し始める。そんな気がするのだが、どうだろう? でも、これって、ほとんどネズミ講の世界である。
自分の幸不幸と、他人の幸不幸を、分けて考えるのには、ひとりひとりの人間が、人間至るところに青山あり、あるいは、人間万事塞翁が馬、というような、しっかりした価値観・幸福感を有することが、その前提になるが、この情報あふれる社会では、それがまた難しい。どうしても、他人との比較においてしか、おのれの幸せを把握できなない状況に、今を生きる人間は追い込まれがちである。
そして、絶対的な価値を求めようという、ちょったぁましな人たちには、彼らを食い物にしようという、各種宗教団体が、大口を開けておいでおいでしている。
そんなのに捕獲されてしまえば、自分は楽になるとしても、今度は自分の信じるものを信じない他人には本格的に容赦がなくなるという、究極のサディズムが後に控えるばかり。
インドの山奥の仏教の聖地に入っていた日本人僧侶を殺害したイスラム教徒の供述は、自分らのモスクより大きい仏教寺院を建てられるのが嫌だ、ということだったよし。仏教徒も回教徒も、それぞれおのれの心の救済を求めて始めたことであろうが、結果的に、他人には心や命には興味がない地点に至ったようだ。この僧侶も、日本でひとりで念仏でもとなえていればよかったのに。

生きにくい世の中である・・・・・・。

同じ新聞の2面には、連載「『われわれ』づくり・政治のこれから」、第4回「家族の姿」というコラムで、太田誠一とか高市早苗とかいう、テレビ出たり、あっちこっちの政党をうろちょろして、自民党に戻った(入った)政治家たちが、教科書検定が、個人の自立や多様な家族の記述に走りすぎていると、批判の気炎を上げている姿がレポがされている。
「家族の絆(きずな)を否定するとか、夫婦ばらばらでいいという考え方をする者は、どこかで共産主義と共通の理念を持っておると思う。今夫婦別姓を認めれば、ロシア革命直後のソ連のような混乱に陥る」(太田)
「(夫婦別姓は)わが国社会の公序良俗にそぐわない」(高市)

このような意見をはくことが、保守ということなのだろうが、酒鬼薔薇少年を育てた家庭は、彼らのいうところの、標準的な家庭なのだし、酒鬼薔薇が歩んできた道のりは、学校教育の面でも、ごく当たり前の道に違いあるまい。彼らが大事にしたいと力説する、当たり前の家庭・学校・企業社会が機能しなくなりつつある時期に、若手の政治家から出る言葉としては、これらは、あまりにも、貧弱であると断じざるを得ない。今問われているのは、いうまでもなく、形でなく、質である。

「国民一人ひとりが自立し責任を持たなければ、この社会は成り立っていかない。別姓を許容するかどうかは、日本の民主主義が本物かどうかの試金石だ」
「家庭と違い学校は、能力、個性、環境すべて違う人が集まっていることがすばらしい。そこで互いの差異を認めあう心を育てあうことが『生きる力』になる」
初めは弁護士福島瑞穂、後は代議士田中真紀子の言葉。この際、代議士・役人・教師はすべて女性にお願いした方がいいのでは、と思うけど、高市早苗も女か。
ジャンジャン、失礼しました。
実は、サディズムというのはこちら側の思いこみにしても、それとも相手側に対する不可読みにしても、究極に意味での、他人に対する興味のひとつの答えなのですね。
サディズムの根底には、愛がなくては、というのはひとつの常識でしょう。
となると、欠けているのは、他人に対する愛と興味ということになるのでしょう。それで、みんなけつの穴のあたりには、プンプンと糞の匂いをたてているたかが人間の端くれのくせに、透明なんて、清らかな言葉に走ったりするのですな。
まぁ、お下品。

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13日(水曜日)

ベストピッチにフルスイング

8月10日の横浜スタジアム、ベイスターズ対スワローズの第19回戦は、7対4で首位スワローズが勝って、第2位ベイスターズとのゲーム差を7ゲーム半に戻した。
ここの23日のところでも書いたとおり、今年のスワローズは無茶苦茶ついているので、ヤクルトの優勝は動かないところだと思うが、この試合で、今シーズン1シーズン分のツキを示したのは、元ライオンズからのリストラ選手辻発彦だった。5回の表、結果的に決勝点になった、五十嵐英樹からはなったセンター前のポテンヒット。内角にホンヤラと入ってくる、チェンジアップ気味のカーブを全然予想していなくて、しっかり泳がされながら、エイヤと腹切りスイングで振ったバットからはなたれたものである。
アメフトをわかる人ならわかるたとえとしか言い様のないたとえでいうと、ラインバッカーにサックされたクオーターバックの手から無意識にはなれたボールがタッチダウンパスになった、という感じだった。
好漢・五十嵐英樹、どうせ打たれるのなら、ベストピッチをフルスイングで打たれるべし。なんとなくという無意識の境界内では、ツキだけの勝負になってしまう。ベイスターズに少しでもツキがあれば、36年も優勝なしなどということはないことを深く知るべし。
辻は5回の裏の守りでも奇跡のような併殺を完成させた。1アウトランナー1塁。進藤達哉の投手の頭をこえてセンターに抜けようかというあたり、これを取るまではあり得る話、はっきりいって併殺もあり得る話。
しかしレフト方向へ流れる身体で、1度はグラブから右手でショートの宮本慎也に出そうとしたが、それが身体全体の動きの中の力学その他の流れで、手違いで空振りに終わり、グラブトスのばくちで急場を凌ぐのはよくある話ではない。
人間は片方の手を一番長く伸ばすためにはもう片方の手を一番長く逆方向に伸ばす、すなわち、辻は、身体を伸ばしきってボールを掴んだので、必然的に右手も伸びていた、その状態で辻は一度はその右手を大きく動かしてセカンドへ投げようとしたが、不様にバランスを崩しかけた、そこでグラブトスした。これは完全にエイヤのプレーだった。そしてゲッツーが成立した。

まったく嫌になってしまうのは、8回の表にドゥエイン・ホージーが島田直也からはなっただめ押しの2ランホーマー。初球、キャッチャー谷繁元信は明らかに、内角高めのいわゆるブラッシング・ボール(威嚇球)を要求していたのだが、それがすーっと、内角胸元に入り、ホージーが無意識にかぶせるようにして、つぶすようにして、スイングした打球がライトスタンド最前列にふりそそいだ。
知る人ゾ知るホージーは、常に全力のプレーヤーであり、善い結果が出た時には、喜ぶことに臆したりはしない、そのホージーが、ベンチに戻って、はしゃぐことなく放心していた、まるで、なんらかの神事に触れた後みたいだった。よっぽどのマグレだったんのだ。
ホージーが敬虔なクリスチャンであることもまた知る人ゾ知るところである。
さて、またここにも大きな罠があった。谷繁が内角球を要求したのには伏線があった。対するヤクルトの日本1のキャッチャー、古田敦也は内角球の使い方が上手であり、その結果、下手な投手はぶつけることになるので、各球団の野手には忌み嫌われている。そして、この試合でも波留敏夫が一発喰らっていた。貸し借りというのはいつでもバランスが大事、ムードメーカー横浜の波留に相応する選手がヤクルトではホージーなのである。
ここまではいい。谷繁はよく考えた。しかし身体がついていかなかった。どうせボールにするのだから、この場合、谷繁は明確に立ち上がって内角高めの顔のあたりへの投球を要求すべきだったのだが、なんとも、中途半端な、中腰の姿勢でボールを待った。そして島田が手をすべらした。
谷繁、こんな所で手を抜くなよなぁ、といいたいけど、よぉく考えれば、中腰の方が疲れる。まったく意味不明の無意志の構えであった。
ベストピッチにフルスイングで対抗するというのが、野球の本分だと思うが、人間がやることであるので、そこに行き着くまでの心理、体調、頭脳の動き、その他諸々で、なかなかそうはならない。なかなかそうはいかなければ、結局は、実力があるものではなく、ツキのあるものと、よりミスの少ないものが勝ち上がる。それが、野村克也のID野球の方法論であり、そのミスの少なさをめざすことに対してベストを尽くしていこうということなのだろう。
ツキに関しては、野村が、勝っている間は同じ下着を着続けるなど、尋常ではないこだわりを見せることは、これまた、知る人ゾ知る話である。
一貫していることは一貫している。立派なものである。天晴れである。
しかし、俺はそんな野球は嫌いだ。野球が現在においてもみんなに愛されている理由は、それが必ずしも勝負だからではない。そんなに勝負が大事なら、チンチロリンでも、あみだくじでもしていればいいのである。
横浜には、捲土重来、次なる対戦においては、そのような境界内の枠に収まるロマンのない野球を、ベストピッチとフルスイングで粉砕していただきたい。
俺はカンという金属音が聞きたい。カクテル光線の中をまっすぐに伸びていく白球が残像として残す銀線を思い浮かべたい。キャッチャーミットを鳴らす、スッパーンという音が聞きたい。
それで負ければしょうがない。僕たちは愛したホエールズ(ベイスターズの前身)はそのようにして、40年近く、負け続けてきたのだ。

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19日(火曜日)

ALONE**老婆心**TOGETHER(003)

毎年、この時期にだけ突出して、日本がまじめになる季節も終了。新聞紙面をにぎわした、戦前・戦中の話題や核の話も霧散し、昨日づけの新聞から、行政改革一色になりつつある。この行革については、落選中の田中秀征さんの「まな板にのるべき鯉が自分で包丁を握っている」という言葉が象徴するように、選挙における一票の格差を何十年かかっても訂正できない政治家や、壮大なる税金の蕩尽に恥じることなく、無意味な開発プロジェクトにメンツと叙勲と出世だけの理由で固執し続け、証券や住専に代表される行政指導の政策破綻に無責任を決め込む、「国やぶれても役所あればよし」の官僚たちに、なんの期待もできないことは明々白々なので、一介のロックバーのおやじたる俺には語るべき言葉もないが、100億円くらいの手数料を税金で払って、アメリカかイギリスの一流の経営コンサルタントに、この国の忌憚なき改造案を提出してもらったらどうだろうか? と、あの世界に冠たる日本国憲法のようにね、などとも思うのだった。競争入札で一番いい奴を採用すればいい。
なぁんてね。イヒヒヒヒ。
さて、それでも、一応気になるのは・・・・・・。
朝日の一連の戦争・核ものの記事で、修学旅行の中高生徒たちが広島や長崎で被爆体験を語り継いでくださっている、ボランティアの方々のお話をまったく受けつけなくなりつつあり、方々が大いに挫折感や絶望感を味わっているという報道があった。
方々の話の間中、ガキどもは私語に次ぐ私語の連続で、早く止めろジジイ(ババア)などというヤジを飛ばしたり、キャンディをぶつけたりするアホもいるそうである。
「たしかにエンターテーメント性には欠けるので、私ももう少し工夫しなくては」などという語り部の方の率直な言葉には、笑うに笑えないオカシミがある。でも別に彼は落語家じゃないんだからそんなことを心配しなくてはいけない理由なんてあるわけがない。
あれはちょうど5年前の夏だった。
俺は有楽町の読売ホールに、大島渚監督制作のドキュメンタリー『大東亜戦争』(68)を観に行った。作品は、真珠湾攻撃の1941年12月8日から日本降伏の1945年8月15日までの日本側の大本営発表による国策映画ニュースと、アメリカ軍の報道部が撮影したフィルムを断続的につなぐことにより、あの戦争を多角的にとらえようというものであったが、当然の如く、会場にあふれる、教師引率社会見学の高校生どもは私語に次ぐ私語の連続で、俺は「この国には将来などない。いつかはまた、この映画の昔のように、自分の身を守るために銃を持たねばならぬ日がきたりするのだろうか」と考え込むばかりだったが、さすがに、攻撃される側のアメリカさんが撮影した、特攻隊がアメリカ戦艦に突っ込んでいくシーン(これが哀しいほどに当たらない。途中で大砲に打たれて、キリモミ状に海に落ちて行く犬死にばかり)で、当たると、やったーとかいって、ひゅーひゅー口笛を吹いたり、歓声を上げる馬鹿どもには激怒し、センコウをも含めて、怒鳴りつけた記憶がある。
「君たち、これはゲームでも、作りものでもない、事実なのだよ。あの瞬間に、なんにんもの人たちが死んでいるのだよ。そんなことも想像できないのか?」
俺の怒りは、たまさか、俺が特攻隊の生き残りの息子という個人的な感情からきているわけではないのだが、一瞬のみ静かになった会場で、センコウも学生も俺の顔をしげしげと眺めて、ニヤニヤ笑っているばかりだった。あのセンコウはきっと帰りの電車で「世間にはああいう危ない人もいるから気をつけよう」といったにちがいない。
先日の酒鬼薔薇少年の事件で、報道陣の後ろでVサインを出したり、いぇーっとかいって、はしゃいでいる馬鹿なガキどもがたくさんいたけど、それを知った親御はしっかりと自分の子供を怒鳴りつけたのだろうか? 「おまえ、殺された淳君のことを考えないのか?」 俺だったら、どっかの木に縛り付けてしばらくは吊しておくけどね。
さて、さて、ぼやいてばかりではしょうがない。
俺、このような、エイリアンみたいなガキどもの出現には、正邪の感情や倫理観や常識の伝導手段としての、紙メディアの衰退がからんでいるのではないかと、思ったりするのだが、いかがだろう?
すなわち、今のガキどもにとり、なにかを感じ学ぶ取る手段としては、テレビやビデオなどの映像メディアが中心であること自体に問題があるのではないかと思うのです。
これは、別に、そのようなメディアでは、たとえば、ドストエフスキーや漱石が取り扱ったような、人間いかに生きるべきか? 、というようなテーマがないがしろにされており、刺激的で幼稚なシーンばかりで形成されているということではない。たとえば宮崎駿男さんの作品や『エバンゲリオン』などには、よっぽど、そこいらの軟弱な物書きのつまらん小説よりも、濃縮された形で厳粛なテーマが織り込まれているはずである。
それでは、コガキの時から『隣のトトロ』や『風の谷のナウシカ』に慣れ親しんでいるはずのガキどもが、そのような馬鹿者になるというのは、いったいどういことだろうか?
賢き大人は、俺たちの接したディズニーの世界に比べれば、などというのだろうけど、実際に、俺たちがガキの時代には、ビデオなんてなかったから、ディズニーのようなものに関しても、今のガキどもの方が、俺たちより、もっとオーソリティだったりしているんでしょ?
俺は、正邪の感情や倫理観や常識の伝導手段としての、紙メディアの復権の必要性を本能的に察知するものであるが、俺なりに、ふたつほど、映像メディアの構造的な欠陥を考えてみた。

1)映像作品では、始まってから終わるまで、時間が直線的に消費され、その過程の瞬間的な時点おいて、観者がなんらかの感想を持ったり、疑問を浮かべたりしても、そのことを自分の心の内で自問自答したり、あるいは、途中で鑑賞を中断し、なんらかの調べものをしたりして確認し消化していくタイミングをもちにくい。あくまで一連のストーリー展開の中で、次の場面、次の感情に観者は連れて行かれ、さっき心に芽生えた感想をも忘却し、ひいては、その制作者の考え方を無自覚無批判で受け入れるしかなくなる。 ビデオなら、とめたりくり返したりできるだろうけど、そのような態度で鑑賞するものは稀だろう。
2)映画がとくにそうだが、そのような映像作品に触れるためには、暗闇とか、大ホールとか、あるいは、テレビとか、ビデオデッキとか、大がかりあるいはそうではないにしても、金のはる装置が必要である。その世界は日常の世界ではない非日常の世界ともいうべきもので、その世界を通してのみ、ものを受け取り、ものを感じるという行為を長く続けると、あたりがややと暗くなりブラウン管やスクリーンを通して語られる言葉以外は、本能的に受けつけないという、心性が発生するのではないか? 目の前で生で語っている人の言葉は信じられず、その言葉が、ブラウン管やスクリーンというフレームの中に収まった時に、初めて、そこにリアリティを感じる。そんな倒錯した感情が発生するような気がする。
とここまで書いて、あの読売ホールのガキどもとセンコウは、そんなスクリーンの中の物語さえ受けつけなかったのだから、ほんまもんの、正真正銘のアホだったんだなとの思いが湧いてきた。それともそんなオールマイティなコミュニケーション不全こそが、現代人の行き着く先なのだろうか? 

それはさておき。

先の世界戦で、ナチスドイツの宣伝相ゲッペルスは、その天才的なアジテーションの才能のすべてを、ヒットラーのイメージ戦略に傾注し、ナチズムの暴走に拍車をかけた。その中心メディアは映像であった。
日本においても、国策により設立された「満州映画協会(満映)」が、関東軍の五族協和などという、強引なスローガンの敷衍を映像メディアで下支えした。

ありがたいごとに、今のところ、映像というメディアを使って、なにか邪悪なことを積極的に吹き込もうという輩はいないようだが、映像というメディアが洗脳の道具として、有効であることは、この映像万能の社会に生きる俺らが、一時でも忘れてはいけないことだと、俺は思うよ。おそらく、洗脳には、二段階あって、第1段階では、とりあえず刺激を与えたり、驚かしたりして観者をカラ=バカにする。そして、いったん、カラにしてから、なにかを無理矢理詰め込むわけだ。
はかってか、はからずしてか、映像メディアの蔓延の結果、とりあえず、第1段階は見事に完了しているのが、現代ということなのかも知れないね。
これからのテレビの他チャンネル化が進行すればそれはきっとますますでしょう。
フフフフ。

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23日(土曜日)

A DAY AROUND BEANS

木曜日(=21日)のお話。

浅草寺裏のいつもの病院で血糖値の検査をしてもらいおうと境内を歩いていたら、久しぶりに、鳩まみれのおじさんを見た。『鳩まみれ』というのは、半村良さんの短編で、先の同居人が持っていって、今手元にないので、正確ではないのだが『私設・浅草案内』(文春文庫?)という短編集に所収されている。
そのラストのシーンで、体中に鳩の餌のまめをばらまいた世捨て人(狂人ではなかったと思う)が、人気のまだない早朝の浅草寺の境内で、鳩まみれになっている光景のスケッチがあった。それ以来時々、浅草寺では鳩まみれのホームレスらしきおじさんを見かける、となると、この真昼の鳩まみれおじさんも、その短編を読んだお人となるのだろうか?
実際、浅草でも新宿でも、いつも本を読んでいるホームレスさんは多いけど・・・・・・。
僕は、半村さんの『鳩まみれ』は「強いばかりが男じゃないと、いつか教えてくれた人。どこのどなたがしらないけれど、鳩と一緒に歌ってた」の『浅草の歌』というシミキン(=清水金一)主演の映画、『浅草の坊ちゃん』(1947年・佐々木康監督)に由来した、シミキンに対するオマージュだと思っていたのだが、あるいは昔から浅草にはオリジナリティにあふれる鳩まみれのおじさんが出現し続けていたのかもしれないと思った。
だって、このおじさん、どう見ても、僕よりも若く、20代前半にしか見えない。その年でそんな本を読んで、しかも早くも、ホームレスまでたどりつく人物は天才だが、そんな天才はホームレスにはならないで天才がやるべき仕事をきっちりやるだろう。天才は天才でも、違う種類の天才なのだろうか?

そのあと、大手町近辺の某商社で、座談会の書記のバイトをした。穀物部の課長3人の鳩首会議で、ひとりが大豆の担当だった。

そして店に出た。仙台に帰郷していたKNが、おみやげだとして、ズンダ餅を持ってきてくれたが、なんと、それは彼本人による自家製であった。
ズンダ餅とは、枝豆を使った緑色のアンコロ餅である。擂り鉢を抱えてフハフハと喰らう。僕の好物をわざわざ作ってきてくれるという厚意が腹にしみる。
ふだん、それほどミルクを飲みたいとは思わないのに、僕がうまいと思うものは、どうして、ミルクの味がするのか? よく噛むと、ミルクの味になる類の固形物を僕はうまいと思うということか?

感謝に満ちつつも予定外のズンダ餅を3個喰らったおかげで、血糖の関係上、夕食を抜かねばならなくなり、夕食を抜いて空きっ腹を抱えて眠るのは困難なので、最後の客となった鳩胸の女の子を連れてゴールデン街のいつもの店に行ったが、女の子は、「あっ、カラータイマーが点滅し始めた」といって速攻で消えた。ウルトラマンも最後はゼットンに破れ、僕に強いばかりが男じゃないと教えてくれた宇宙人だった、などと思いつつジンをちびちびなめていると「ずいぶん早く逃げられたわね」などといいながらママさんが枝豆を出してくれた。
枝豆をよく噛むと、やはり牛乳の味がした。
まめの味。
こんなことをしていないで、もっとまめに働けということだろうか?
されば、寝る前に少しは某商社の鳩首会議の座談会を原稿化しようと、店を出たら、鳩が2羽、道端で米粒かなんかをついばんでいた。
ローソンでフライドチキンを買って、食べ歩きしながら帰った。結局カロリーオーバーになった。抜け道の公園で、いつもの坊主頭の女性のホームレスさんが眠っていたので、その足下の当たりにフライドチキンをひとつだけ置いた。彼女が目覚めるまでに、悪くならなければいいと思った。
明日も暑くなりそうだった。

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29日(金曜日)

DO-SO-SIN MORNING RIVER WALK

前回のズンダ餅のKNが車を出してくれたので、恒例の、俺と絵描きとの真夜中の大散歩は深夜4時、北区小台橋のたもとがその起点となった。場所はともかく、そんなに遅い開始になったのは、その前に、深夜2時開店の心の居酒屋、浅草「大島屋」で名物、煮込みと生ビールという天国のタッグマッチに舌づつみをうったからである。日ごろの暴飲暴食のカロリーオーバーを精算するための大散歩だというのに、実に矛盾した行為ではあるが・・・・・・。
それで気合いを入れて隅田川を北上、ちょうど日が昇り始める頃に、隅田川と荒川放水路が分岐する、岩淵水門あたりの大土手に到着した。
この近辺は、緑と水にあふれた、東京でももっともパノラマチックな空間であるが、早起きの中高年の女性たちが、うじゃうじゃと、ジャージ姿のウォーキングに励む姿は、それにもまして、壮観である。早起きの佳き人々は、大酒飲みの徹夜の俺たちとすれ違う度に、「おはようございます」と声をかける。行きがかり上、俺たちも、「おはようございます」とこたえる。もう何年も午前中に目を覚ましたことのない俺にとり、実に、懐かしい響きの言葉であり、苦笑せざるをえない。
女性たちは、おおむね、ノーブラである。やや肥満気味の女性がそのマジョリティー故に、みんなたわわな胸をゆさゆさ揺すって歩いている。
右手、埼玉県川口市の方向には巨大なとうもろこしのような高層ビルが建設中であり、左手、東京都の方向には、これまた巨大な細長い清掃工場の煙突が一点曇りなき青空にそそり立っている。それぞれが、屹立した男根のイメージを想起させるに充分である。早起きの佳き女性たちの活力の・ようなものになっているのだろう。いやはや、皆様お元気でなによりであります。
思えば、昨日は、ビートルズの心優しきマネージャー、ブライアン・エプスタインの30周忌であった。彼なら、この、現代のドウソシンを見上げて、静かな微笑みを浮かべたことであろう。彼が、あの世で、ステキなボーイ・フレンドと楽しく暮らしていることを祈りたい。
そんなことを思いながら、3時間も歩いたのだからもういいだろうと、俺たちは、ビールの自動販売機を求めて志茂橋を渡った。飲む前にビールのプル・トップのところをしばらく眺めた。

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