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火だるまGの4+18手


since 96.5.03

毎月4日と18日に僕のANOTHER EMPTY HEART AND MINDからお届けします。1年単位でバックナンバーに在庫していきます。
1997年末日で終了した、THANK YOU REPORTのバックナンバーはここにあります。

1999年

 #218

1月4日  長期不安定連載・聖書を読む「完結編」
  18日  JUST MY IMAGINATION
2月4日  幻の90年代
  18日  NOTHING REMAINS THE SAME, LIFE IS A CONSTANT CHANGE



 

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1月4日(月曜日)

長期不安定連載・聖書を読む「完結編」

 聖書を読み切るのにちょうど1年かかったといえば、ディグニティブな響きもあるが、当然、昨年98年の正月から1度も聖書を開くことなく終わり、今年99年正月にまた立ち向かったのである。
 三日坊主という言葉があるが、この場合は三日神父・三日牧師という言葉がふさわしいだろう、まことに信用できない人間である、私は。
 ただし、今回は正月3が日、約20時間かけて読了した。
 どうして読了できたのか?
 簡単にいえば、素材を変えたのだ、不妊治療の主治医を代えたようなもの、すなわち、ウオルター・ワンゲリン版『小説聖書』(徳間書店)、小説としての聖書にすがって読了させていただいたのだ。
 あぁありがたや、あぁありがたや。
 これまで聖書に挑むこと、幾たびや。その都度、信心薄き子羊は跳ね返され、メェメェと退散をくり返してきた。ヨメェネェ、ヨメネェ〜。

 あれは、1980年秋、私は大学3年。私のまわりには全く女性の気配がなかった。これは今でも引き継がれている問題、女性に持てないということもあるが、それ以上に物理的に身の回りに女性がいなかったのだ。
 私は、大学で後輩の男子、3人を従え、日々読書会活動にいそしんでいた。題材は戦後の日本政治思想史である。60年安保。高度成長。カウンターカルチュアーなどをテーマに、吉本隆明、花田清輝、竹内好、中上健二、村上龍などという作家の作品を精読し、論評し、批判しあうという活動に励んでいたのだ。
 そうしてある日、女性に対してどうしようもない飢えを覚えた。
 それで私は英会話の学校に行ったのだ。夜間であり毎日であった。そこに行けば女性がいると薄々といやくっきりと分かっていた。私の臭覚は鋭いのだ。
 そこで私は1週間も立たないうちにMという少女と縁を持った。これが驚くことに惚れられたのだ。私がMに見つけられたというか。
 Mはかなり有名な女性ロックバンドのベーシストであり、女子大学生であった。
 M曰く、あなたはおもしろい、あなたのような男の人は珍しい。
 その言葉が何を指すのか、よくわからなかった、日頃の私の行動などが少しは人とは違うのかと思った。
 そして私は3週間でふられた。
 実際はMとの関係は社会に出てからまたも発生するのだが、その時にはたったの3週間で三行半を突きつけられたのだ。
 M曰く、あなたはつまらない、あなたは私の思ったような男の人ではなかった。
 心当たりはいくらでもあった。私は恋愛の初心者であり、毎日のようにMに電話をし、その日にあったことを尋ね、次はいつに逢えるのかを尋ね、私がMに愛されてどのように幸せかを語った。
 Mには愛は自明だったのだが、私には愛が奇跡に思えたのだと思う。
 私は、愛に生活を見失い、私の生活を愛した、Mは、生活を見失った男に対する愛を失った。
 私は恥じた。二度とこのような間違いを起こさぬと誓った。
 恥とMへの想いから逃れるために私が没頭したのが、草野球と、卒論制作であった。卒論のテーマは、人類の発展段階において現代とはどういう時代か?
 そのふたつのテーマはいまだに私のまわりにまとわりついている。

 私は荒川の河川敷で草野球に向かっていた。日の強い夏であった。日々の卒論制作で暗闇に閉じこもっていた私は、土手の上に立ち、遠くに炎たつ入道雲を見ていた。
 死にたいと思った。
 空間があまりにも悠々と巨大でおのれの小ささがいたたまれなく思ったのである。
 その野球の帰り、私は四谷の聖書を売る本屋の二階で初めて十字架を買い、胸に下げた。
 私は、嫉妬や考えてもしょうがない心配や虚栄に走る、私の卑小な心を監視する、何か私よりもしっかりとした強いもの、私がダメになったらきちんと私を滅ぼしてくれる何か酷薄なものが必要だと考え、それをイエスに求めた。

 1994年に私が、クロスをはずすまでにも、私は恋愛をし、仕事をし、音楽を聴き、会社をやめ、友とロックバーを開き、ものを書き、酒を飲み、とにかくいろいろなことをした。
 そしてある日、私はクロスをはずし、あたらしく、ロックと書いたクロスをかけた。もう二度とそのクロスをはずすことはない。
 私は監視者を求めること自体のダメさが、その人間のダメさ以上にダメであることを体感したのだろうと思う。
 どうせダメなら、あるがままにダメであろうと思うようになった。
 三つ子の魂は百までというが、その通り、私はいまだに、女性の前に乱れおのれを失い、そして今では、そんなもんだそれでいいと思っている。

 旧約・新約の聖書を読み。いくつか思った。

 まず、死者は語らないということである。聖書の世界の奇跡はいつも良き者の死の瞬間に訪れる。聖書に残された言葉は生存者の類推である。
 聖書では生存者が、おのれでさえ未知である死について語り、生を謳歌すべき良き者を恐喝している。生者は生を語るべきだ。自分の生を語るべきで、おのれの生を語らず、しかも他人の死をおのれの生のなにかしらのために利用して語る。それが聖書の世界であり、わたしはそれを認めない。
 神を語る者は、おそらくもっとも神から遠い者だろう。

 「わたしの目には富がそのようにうつるのです。すべての生の貧しさとして・・・・・・智恵とはすなわち、人は貧しいと知ることなのです」
 最後のユダヤの王、栄華を極めたソロモンの言葉である。
 これは行き着いた人間の言葉。
 物質的にも精神的にも人間は行き着き、そして、死ととものそれを忘れる。
 そのような人間の歴史の書として聖書は読まれるべきだと思う。

 しかし私が、十字架を選んだのは間違いであった。神の子イエスは赦しの神であり、父たる審判の神ではなかった。
 そして父たる主には形はない。
 だからロックは私自身なのだ。

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1月18日(月曜日)

JUST MY IMAGINATION

 @そしてそのココロは?(想像力をめぐる問題@)

 『まひるのほし』(佐藤真/98)を初日に見たんよ。
 知的障害というハンディを持った絵描きさんたちをめぐるドキュメント。主な登場人物の1人として桝次(しょうじ)崇という人が出てくる。そのショーちゃん、竹村幸恵さんという女性が好きなんだね、おそらく。彼女の頬に手を当てたりして、ニコニコしていて、それで射精しちゃうんだ。しかし、そのシーンはほんの冒頭で、当然、ドキュメンタリーだからなんの説明もないし、しかもロングの画像で、アッという間に消えてしまうシーンだから、おそらく、ほとんどの人が気がつかないよ。「でたぁ〜〜」とかいって、はやし立てているお茶目な人がいたけど、彼らの言葉も不明瞭で、聞き取りは不能。
 それで結果としてその後延々と続いていく、才あるアーティストである、ショーちゃんの創作における没頭ぶりばかりが観客に残る。
「障害持っていても、すご〜いぃ。私もがんばろうっと」
 みたいな。
 わかる人だけわかる。気づく人だけ気づけばいいという表現はどうでしょうね?
 舌ったらずで、へたくそだから、伝わらないというのは仕方ないけど、佐藤さんは、そうじゃぁないんではなかろうか?
 あの理解困難なシーンの本意はなんなんだろう?
 理解は客にふるという方法論はありだけどさ、その場合でも、私はこう思うというのがないとね。
 結論からいうと、あのシーンはなかった方がいいね。ショーちゃんにもアーティストとしての、あるいは、人間としてのプライドがあるし、徹底的なプライドの放棄は、お気の毒な、西尾繁氏、シゲちゃんに、中盤以降で身も蓋もないほど強いているんだから。
 俺がひねくれているのかも知れないけど、人間自体を笑いものにする、嫌な映画だと思うよ、でも、他にどういう方法で彼らをテーマにして映画が撮れるかというと、よくわからない。誰も彼らを撮らないと誰も彼らのことをわからないもんね。

A無謬という病理(想像力の問題A)

 平塚とか八王子で車の中で睡眠薬飲まして、小銭を取って、冬空に放棄して、若い女性を殺した男はひどいね。
 ようするに、薄着で冬空に睡眠者を放置したら死ぬんだいうことを想像できなかったんだろうかね? そういえば、最近冬山なんかで「寝るな、寝たら死ぬぞ〜〜」みたいな絶叫するテレビドラマとか映画とかあまりないから、本当にしらんかったのかね? まさか殺人罪になるとは思わなかったというのなら、本当に、アホだね。
 語弊があるけど、おもしろいのは、彼の考え方というのは、とにかく誰にもばれたくないという、考え方の極地だという、気がすることね。被害者の記憶も飛ばしてしまいたいというのは、犯罪者としては、誰もが夢見ることだと思うけど、そこまで、人の眼を気にするなら、どうして、被害者の遺留物残すとか、自分の携帯から電話するとかするかね。しかも、一回目の犯罪で、すでに、自分が殺人犯になったことを知っているんでしょ。どうして、もっともアホな方法で、同じことをくり返すのかね?
 ということは、彼にとって、被害者の記憶さえ飛ばして、自分の悪いところを隠蔽したいというのは、思想ではなく、刷り込みや反射神経のようなもので、そのくらい、彼は、親の目とか、世間の眼とか、仲間の目とかが切実に気になっているということなんでしょう。
 最近のガキは、学校で悪さして、先こうが、親呼ぶぞって脅すと、泣いてわめいてそれだけは止してくれと騒ぐそうですが、とにかく、無謬というフィクションの病理がはびこっていると感じません?
 あんたなんかたいしたことないって、親も世間も仲間もとっくに知っているのにね。

B割り箸とつまようじ(想像力の問題B)

 中華喰っていて相席になって、ふと見ると、そのオバン、割り箸で楊枝をしているんよ。さすがに中年オバンは凄いなと、歯茎から血が出ないのかしらんと思って感心したんだけど、それが、俺のせいだと気がつくまで10分くらいかかったね。
 反省(猿のポーズ)
 つまり、俺ら、ギョーザ喰うんで、醤油と酢を使ったんだけど、それが入っている鉄篭に爪楊枝も入っていたんだね。
 こっちは喰うのに忙しいし、それに、楊枝入れが妙に小振りで、醤油とかラー油とかの陰になっていて気がつかなかった。それでこちらの手元にその鉄篭を放置したままであったというわけ。
 それじゃぁ、おばさまだって、手が届かない。
 それに俺の顔が恐いから、すいません、楊枝をとらしてくださいと、いえなかったんであろう。
 これから先、中華の円卓テーブルでは、醤油とか楊枝の篭は、使ったら、真ん中に戻そうと、ココロに誓った、日曜の昼下がり、快晴であった。

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2月4日(木曜日)

幻の90年代

 火力の雨降る街角 なぞの砂嵐にまかれて 足とられ ヤクザいらつく 午後の地獄 ふざけた街にこそ 家族がいる こんな街じゃ俺の遊び場なンか とっくに消えてしまったぜ なのに風にならない都市よ なぜ俺に力をくれる (『翼なき野郎ども』/泉谷しげる/『80のバラッド』/78)
 私の愛する「亀有名画座」がまるでコモンストックと足並みを合わせるがごとくに、2月28日で幕を閉じるそうだ。
 愛するものはすべて滅びる。横浜大洋ホエールズ、AMI。あぁ。
 90年代は、私にとって、日本映画の10年だった。「高田馬場パール座」「三軒茶屋アムス」「築地シネバラック」「池袋文芸座」「銀座並木座」「大井町武蔵野館」。夜はロックバーをやっていたというのに、自分でもよくあれだけ日本映画を見たと思う。
 日記を読み返せば、91年137本、92年224本、93年257本、94年271本、95年312本、96年224本、97年59本、98年36本、そして99年、今のところ1本。
 97年以降の減速は、昼間の映画館にいた私が、真夜中の飲み屋にいる私になったということであるが、飲み干したボトルの数は、見物した映画の数におよびもつかない。
 90年代の真っ昼間、私はほとんどの時間を、映画館で過ごしたのだな。上記の映画館で、上記の順番で滅びた映画館で。
 そして、また、「亀有名画座」。
 本当に俺の遊び場なんて、この街にはなくなってしまったんだぜ。
 これでコモンストックをやめちまうんだから、いつか、だれかに俺の90年代を具体的に説明することもできなくなってしまうわけだ。
 幻。
「亀有名画座」は、最後の3週間、ごきげんなラインアップでフィナーレを飾ってくれるよ。

僕は明日行ってくる。
 吉行由美。瀬々敬久、佐藤寿保、サトウトシキ、佐野和宏。
 そういう人の映画は見れたら見たらいいと思うよ。
 なかなか見ることが難しくなってしまったけれどね。
 自問自答する。
 俺は、これらはもうすぐ手に入らなくなると思って、本能で、日本映画を貪っていたのだろうか?

BEFORE CONSTRUCTON

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2月18日(木曜日)

NOTHING REMAINS THE SAME, LIFE IS A CONSTANT CHANGE

 私が、この28日に閉館する亀有名画座で瀬々敬久監督の90年作品『痴漢電車・りえのフンドシ』(脚本名=ココナッツ・クラッシュ)を見物したのは、1998年11月16日の木曜日のことだ。
 そして、国沢実監督の98年作品『女子プロ志願卍くずし』を観たのが99年の2月10日の水曜日、もちろん同じく亀有名画座においてである。
 この二つの作品は、それぞれ女子プロレスの世界にテーマを求めているが、ヒロインの心のあり方、モティベーションみたいなものが大きく違う。
 前者は、落ちぶれた男を励ますためにがんばる女といった話で、よく言えば、人と人とのつながりがあったが、悪く言えば自我が感じられなかった。
 後者は、純粋な自分探しがテーマで、燃焼できる何物かに対する希求が動機であるが、悪く言えば、孤立していてさみしい。
 しかし、私は、この差異を進歩と受けとめたい。純粋に自己の欲望を追求するヒロインは美しいと感じるからである。
 90年の『痴漢電車・りえのフンドシ』のヒロインは、少女の肉体に女の顔がのっていた、98年の『女子プロ志願卍くずし』のヒロインはその逆である。
 90年と言えば、私が商社を止め、ロックバーを開く準備を始めた年、99年と言えば、もちろんそれを閉じる年である。
 私もおのれの欲望に対して純粋でありたい。
 LIKE A ROLLING STONE。同じ事はやってられない。
 たとえそれがどんなに意味のあることであったとしても。
 だから4+18手もこれでおしまいです。

 

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