海野幸典 うんのゆきのり 寛政六〜嘉永元(1794-1848) 号:遊翁・柳園

信濃国滋野氏の末孫。寛政六年(1794)十一月十四日、江戸に生れる。通称源兵衛。松江藩士・幕府御案内人として勤めた後、出家して遊翁を号し、和歌・国学を専らとする。小沢蘆庵を慕い、同門の前場黙軒に入門。国学では本居宣長に私淑し、本居大平に師事した。嘉永元年(1848)十一月十一日、没。五十五歳。
家集に『柳園家集』がある(校註国歌大系十八所収)。短歌のみならず、長歌・旋頭歌・今様を多く作った。文法研究・音韻研究などにも功績あり、『天言活用図』『五十音口訣』などの著書がある。他の編著に『現存歌選』『ただこと歌の弁』など。
 
以下には『柳園家集』より五首を抜萃した。

夕梅

かへりみるたびに梢の暮れそひてほのかになりぬ梅の林は

【通釈】振り返って見るたびに、梢はだんだん暗くなり、花の咲く梅林はぼんやりとしてしまう。

【補記】「夕梅」と題は付いているが、従来の題詠歌とは全く異なる詠みぶりである。実景実情を詠んだと思わせる自然さがあるので、題を先に決めて虚構した歌とはとても見えないのである。作者は小沢蘆庵の「ただこと歌」を庶幾し、平明な表現で心や景をあるがままに詠むことを心がけたが、特に重んじたのは調べの美しさ、声に出して読む時の誦(ずん)じやすさであった。

春鳥

夕がらす霞のうちになりにけり()()つふたつ行くと見しまに

【通釈】夕方ねぐらへ帰る烏は霞のうちに隠れてしまった。枕草子に言うように三羽、四羽、二羽と飛んでゆくと見ていた間に。

【補記】烏は和歌ではあまり好まれなかった鳥であるが、まして「春鳥」の題で烏を詠むのはきわめて異例である。おそらく『枕草子』から発想し、秋を春に移してみせたものか。だとしても作り物めいてはおらず、自然な詠みぶりから実景実情を想わせられる、やはり「ただこと歌」である。

【参考】「枕草子」第一段
秋は夕暮。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏のねどころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、とびいそぐさへあはれなり。
(「三つ四つ二つなど」とする本もある。)

夕納涼

木々の葉に涼しと見つる夕風のやがて袂にそよぎぬるかな

【通釈】木々の葉をさやがせて、涼しげだと眺めていた夕風が、やがて私の袂にもそよそよと音を立てたのだった。

【補記】ただ流麗にながれるのでない、波動を持った声調の美しさがある。調べに心を尽くしたこの作者の達成と言えよう。

秋雲

大空にただよふ秋の白雲のなど身にしみて寂しかるらむ

【通釈】大空に漂う秋の白雲が、どうして身に沁みるほど寂しく感じられるのだろうか。

【補記】「寂し」の語は幸典の叙景歌に頻出する。「何となく寂しくもあるか山の端の紅葉にひびく入相の鐘」「入日さす萱(かや)が軒端の山柿の色さへさびし秋の夕べは」など。その時々の感情を率直にあらわすべきだとした蘆庵の歌論に従ったのだろうか。しかしややもすると、対象をよく見つめる前に自身の感情の表出へ走ってしまっているといった印象を受ける。蘆庵の歌と幸典の歌の違いである。

母君いませし世には幸和(ゆきかず)まだ三つばかりにていと愛(いと)しきものにしたまひしを、此の年頃公に出でつかうまつり、年いと若くて成り出づる度毎にあはれ世にいませしかばと心のうちに絶ゆることなう偲びつるを、今年五月五日、幸和十九にて身まかりしかば、袂の露かわくまもあらぬに、此の神無月十九日は母君はや十七回忌にあたりたまへれば、香焚き花奉りなどすとて

君まさばまさばとこそは思ひしかなきが嬉しき年もありけり

【通釈】(詞書)母君が生きておられた世には、幸和はまだ三歳ほどで、大変可愛がって下さったが、幸和がこの数年来おおやけにお仕え申し上げ、まだ年若いので成長が見えるたび毎に「ああ、母君が生きておられたら」と心のうちに絶えず偲んでいたのであるが、今年の五月五日、その幸和が十九歳で亡くなってしまったので、袖の涙が乾く間もないところへ、この十月十九日ははや母君の十七回忌にあたるので、香を焚いて花を奉りなどするとて
(歌)母君が生きておられたら、生きておられたらと何度も思ったものだが、この世におられなくて嬉しいと思う年もあったのだった。

【語釈】◇公(おほやけ)に出でつかうまつり 幸和が社会に出て勤め始めたことを言う。◇成り出づる 成長変化する。◇なきが嬉しき年 母君がいなくて良かったと思う年。子の幸和が亡くなった年のこと。

【補記】息子の幸和を亡くした年、母の十七回忌を迎えた時の歌。

【参考歌】永福門院「玉葉集」
音せぬが嬉しき折もありけるよ頼みさだめて後の夕暮


公開日:平成20年01月21日
最終更新日:平成20年01月21日