肥後 ひご 生没年未詳 別称:京極前関白家肥後・皇后宮肥後・常陸 など

肥後守藤原定成の娘。常陸守藤原実宗の妻。
京極関白師実家に長く出仕した。晩年は白河天皇皇女令子内親王に仕え、皇后宮肥後とも称される。
院政時代の代表的女流歌人の一人で、堀河院艶書歌合・堀河百首・永久百首などに詠進。家集『肥後集』がある(桂宮本叢書一〇、私家集大成二、新編国歌大観七に翻刻)。金葉集初出。勅撰入集は五十三首。

  2首  1首  4首  5首 計12首

題しらず

春の夜は梢にやどる月の色を花にまがへてあかず見るかな(続拾遺71)

【通釈】朧ろな春の夜は、ひととき梢に留まっている月の美しい光を、桜の花と見まがうばかり――それを飽きもせずに眺めるのだ。

【補記】梢にかかった朧月を花かと見やりつつ、いつまでも眺めているという。家集の詞書「はるころ、月あかきころ」からすると、題詠でなく即興詠のようである。

菫菜

ふるさとの浅茅が原におなじくは君とすみれの花を摘まばや(堀河百首)

【通釈】昔あなたと住んだ、なつかしい里の浅茅原で、どうせなら、あなたと菫の花を摘みたいものだ。

【語釈】◇ふるさと 荒れた里、古い由緒のある里、昔なじみの土地など、さまざまなニュアンスで使われる語。掲出歌では、愛しい人と住んだ馴染みの里の意。◇君とすみれの すみれのスミに住みの意を掛けている。

【補記】長治二年(1105)か三年頃成立の『堀河百首』。『肥後集』には見えない。

【主な派生歌】
ふる里の野べ見に来れば昔わが妹とすみれの花咲きにけり(*賀茂真淵)

月をよめる

月をみて思ふ心のままならば行方もしらずあくがれなまし(金葉189)

【通釈】月を見ていると、心が空へと誘われてゆく。そんな心のままにまかせたなら、心は身体を抜け出して、行方も知れずさまよってしまうだろう。

【語釈】◇あくがれ 魂魄が身体を離れてさまよい出す。

【主な派生歌】
花を見ておもふ心のままならば散るにとまりてかくは嘆かじ(小侍従)
月影にのれる心のままならばいづこの浦やとまりならまし(*油谷倭文子)

堀河院の御時、百首歌奉りける時、はじめの恋の心をよめる

まだしらぬ人をはじめて恋ふるかな思ふ心よ道しるべせよ(千載642)

【通釈】まだよく知りもしない人に、恋をし始めることよ。私の心だけは、すでにあの人のもとに通っているのだから、私の心よ、あの人のもとへと、私を道案内しておくれ。

【補記】『堀河百首』。題「はじめの恋」は、初期段階の恋の意。

みなのがは

たまさかに逢瀬はなくてみなの川涙の淵にしづむ恋かな(肥後集)

【通釈】かりそめにもあの人と逢う機会はなくて――涙が溜まって淵になったという男女(みな)の川の深みに、私の恋は沈んでいるよ。

【語釈】◇みなの川 筑波山に発し、山麓を流れて桜川に合流し、霞ヶ浦に注ぐ。陽成院の歌(下記参照)で名高い。「男女の川」は後世の当て字。

【補記】名所を題にして詠んだ歌。「瀬」「淵」「沈む」は川の縁語。

【本歌】陽成院「後撰集」
筑波嶺の峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる

忘るまじきよし契りける人の、さもあらざりければ、歎きける人にかはりてよみ侍りける

はかなくて絶えにし人の憂きよりも物わすれせぬ身をぞうらむる(風雅1390)

【通釈】あっけなく絶えてしまった人のつれなさよりも、誓ったとおりにいつまでもあの人を忘れることができない自分の身を恨むよ。

【補記】詞書の大意は「決して忘れまいと契った恋人に裏切られて歎く人に代わって歌を詠んだ」。代作である。『肥後集』の詞書もほぼ同じく「ながらへて忘るまじきよし言ひける人の、さもなかりけるにかはりて」。『風雅集』以前に、鎌倉時代の秀歌選『秋風集』『拾遺風体和歌集』に採られている。

題しらず

面影の忘れぬ人によそへつつ入るをぞしたふ秋の夜の月(新古1265)

【通釈】別れても面影の忘られぬ人――その人を思い浮かべながら、名残惜しく慕うのだ、山の端に隠れてゆく秋の夜の月を。

【補記】『肥後集』の詞書は「月、恋しき人に似たり」。また第四句「いるをぞつたふ」とする。「つたふ」は「したふ」の誤写か。あるいは「沈む月の後を辿ってゆく」意で用いたか。

天王寺に参りけるに、難波の浦に泊りてよみ侍りける

さ夜ふけて葦の末こす浦風にあはれうちそふ波の音かな(新古919)

【通釈】夜が更けて、難波の浦から吹き寄せる風が強まり、葦の葉末を吹き越してくる風の音に、波の音が重なって、旅の哀れさをいっそう募らせる。

【語釈】◇天王寺 四天王寺。大阪市天王寺区にある、聖徳太子建立と伝わる寺。

【補記】『肥後集』の詞書は「船にて目をさまして聞けば、湊の波にきほひて、葦の風になびく音を聞きて」、第二句「あしのうへこす」とする。

【主な派生歌】
冬のよの月は都の友ながらあはれうちそふ浪まくらかな(慈円)
磯の松あらしにたへぬ折しもあれあはれうちそふ浪の音かな(後鳥羽院)

高陽(かやう)院にて、花の散るを見てよみ侍りける

万代(よろづよ)をふるにかひある宿なれやみゆきと見えて花ぞ散りける(新古1453)

【通釈】千年万年経っても、ありつづけるだけの甲斐があるお邸なのでしょうか、清らかな雪のように見えて桜の花が散っておりますよ。

【語釈】◇高陽院 賀陽院とも。中御門南堀河東。藤原頼通から師実、師通へと受け継がれた邸。◇ふる (時を)経る・(雪が)降る、の掛詞。◇みゆき み雪・御幸(天皇のおでまし)、の掛詞。なお、「ふる」「ゆき」は縁語。

【補記】『肥後集』の詞書は「高陽院殿(かやゐどの)の花、庭に散りたるを見て」。二条関白内大臣師通の返し、「枝ごとの末まで匂ふ花なれば散るもみゆきと見ゆるなるらむ」。

太皇太后宮大弐、四月に開きたる桜を折りてつかはし侍りければ

春はいかにちぎりおきてかすぎにしと遅れてにほふ花に問はばや(新勅撰1056)

【通釈】四月にもなって、ずいぶん遅れて咲いた花だこと。春はとうに過ぎ去ってしまったのに、いったい春とどんな約束を交わしておいたというのでしょう。花に訊いてみたいものです。

【語釈】◇太皇太后宮大弐 令子内親王に仕えた女房。

【補記】この歌は『二条太皇太后宮大弐集』に「とののひこの君にみせたれば」の詞書で載り、作者名は明記されていない。太皇太后宮大弐が遅咲きの桜を殿(師実)の孫に見せ、師実家に仕えていた肥後が主人の孫に代わって詠んだ歌ということになろうか。大弐の作と思える返しは「とはましを花の物言ふ世なりせばありて過ぎにし春の行衛を」。

涅槃経(ねはんぎやう)よみ侍りける時、夢に「散る花に池の氷もとけぬなり花吹きちらす春の夜の空」と書きて、人の見せ侍りければ、夢のうちに返しすと覚えける歌

谷川のながれし清くすみぬればくまなき月の影もうかびぬ(新古1930)

【通釈】谷川の流れが清く澄んでいるので、隈もなく照り輝く月の影も、水面に浮んでいるのだ。

【語釈】◇谷川のながれ 仏性をそなえた衆生の心を暗喩するか。◇すみ 澄み・住みの掛詞。◇くまなき月の影 衆生の心に常住する如来を暗示するのであろう。

【補記】『肥後集』では「散る花に…」の歌を詠んだのは「十よばかりなるなにわらは」とある。その歌に夢の中で返したという歌。

おなじ旅の宿りにて、月を見て

芦火(あしび)たく恋にやつるる(ねや)の上に白くもりくる月の影かな(肥後集)

【通釈】難波の浦では芦を焼く煙がたちのぼっている。そのように私も恋しさに胸を焦がし、やつれて宿に横になっていると、寝所の上に月の光が漏れて来て、あたりはほの白く明るむ。

【補記】詞書の「おなじ旅」とは、『肥後集』の一つ前の歌の詞書「塩の湯のことに、津の国のわたりに」云々とあるのを受ける。摂津国有馬温泉への旅であろう。


更新日:平成15年09月05日
最終更新日:令和03年07月21日