狭野茅上娘子 さののちがみおとめ 生没年未詳 

伝不詳。万葉集の西本願寺本・紀州本などは「狹野弟上(おとかみ)娘子」とし、類聚古集・細井本などは「狹野茅上娘子」とする。「茅上」は日本霊異記・今昔物語(巻十二)に「丹生茅上」なる人物名(男性)が見え、奈良朝には珍しくない名だったか。
万葉巻十五の目録によれば、蔵部(後宮十二司の蔵司か)の女嬬であった。天平十二年以前、中臣宅守と夫婦の契りを結んだようであるが、この時、宅守は越前への流罪に処せられた(罪状は不明)。離別の際の歌、及び配所の宅守と贈答した歌が万葉集巻十五に収められている。
以下は茅上娘子の万葉収載歌全二十三首である。

中臣朝臣宅守の、蔵部の女嬬狭野茅上娘子を娶(めと)る時、勅して流罪(るざい)に断じて、越前国に配す。ここに夫婦別るることの易く会ふことの難きを相嘆き、各(おのもおのも)(かな)しみの情(こころ)を陳(の)べて、贈り答ふる歌

あしひきの山道(やまぢ)越えむとする君を心に持ちて安けくもなし(15-3723)

【通釈】辛い山道を越えて行こうとするあなた――その姿をずっと心に持ち抱えたままで、私は安らかな気持になる時もありません。

【補記】平城京から流刑地の越前までは、おそらく奈良山を越えて山城国に入り、さらに逢坂山を越えて近江国に進み、琵琶湖西岸を北上して愛発(あらち)山を越えるというルートを取ったものと思われる。「心に持ちて」は他に例を見ない。漢文翻訳調の堅い表現が強い効果を生み出している、倭歌には特異な例と言うべきか。

 

君が行く道の長手を繰りたたね焼き滅ぼさむ(あめ)の火もがも(15-3724)

【通釈】あなたが行く長い道のりを、くるくると手繰り寄せるようにして、焼き尽くしてくれる天の火がほしい。そうすれば、あなたは都に留まるしかないだろうから。

【補記】「たたね」は下二段動詞「たたぬ」の連用形で、「畳む」意。長い物の先端に火をつけると、クルクルと畳まるように燃え縮み、焼き尽きてしまうことがある。そのイメージから「道の長手を繰りたたね」という表現を引き出して来たものと思われる。「天の火」は、自然に起きて原因が分からない火を意味する漢語「天火」の翻訳語であろうと言う(私はこの歌を読むたび落雷による発火をイメージしてしまうのだが)。

 

我が背子しけだし(まか)らば白妙の袖を振らさね見つつ偲はむ(15-3725)

【通釈】あなたがもしや本当に都を去ってしまうのなら、せめて袖を振って下さい。それを見ながらお慕い申しておりましょう。

【補記】「けだし」はもともと「きっと」「まさしく」といった意味だが、未確定のことを言う場合、「もしや」「万一」といった意味になる。

 

この頃は恋ひつつもあらむ玉くしげ明けてをちよりすべなかるべし(15-3726)

【通釈】今夜あたりは恋しく思って過ごすのでしょう。朝が明けて、あなたが旅立ってしまってのちは、もうなすすべもなく切ないに違いありません。

【語釈】◇明けてをちより 「をちは彼(ヲチ)にて明日よりあなたなり」(代匠記)。

【補記】左注に「右の四首は、娘子の別れに臨みて作る歌」。中臣宅守との別れに臨んで作った歌。

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命あらば逢ふこともあらむ我がゆゑにはだな思ひそ命だに経ば(15-3745)

【通釈】命があれば再びお逢いすることもできるでしょう。私のためにひどく思い煩わないで下さい。命さえ生き長らえれば、いつかお逢いできるのですから。

【語釈】◇はだ 原文は「波太」。「甚だ」の意かという。「はた」と訓み、「まさに」等の意に解する説もある。

【補記】宅守の「天地の神なきものにあらばこそ我が思ふ妹に逢はず死にせめ」「我妹子に恋ふるに我はたまきはる短き命も惜しけくもなし」等を踏まえて応じた歌。

 

人の植うる田は植ゑまさず今更に国別れして(あれ)はいかにせむ(15-3746)

【通釈】皆が田植えをする季節になりましたのに、あなたはご自分の田の田植えもなさらず、今しも遠く国を離れておいでです。一体残された私はどうすればよいのでしょうか。

 

我が屋戸の松の葉見つつ(あれ)待たむ早帰りませ恋ひ死なぬとに(15-3747)

【通釈】我が家の庭の松の葉を見ながら――その「まつ」という名の通り、私は待っていましょう。早く帰って来て下さい。私が恋い死にしてしまわないうちに。

 

他国(ひとくに)は住み悪しとぞ言ふ(すむや)けく早帰りませ恋ひ死なぬとに(15-3748)

【通釈】異国は何かと住みにくいと申します。すみやかに、早く帰って来て下さい。私が恋い死にしてしまわないうちに。

 

他国に君をいませていつまでか()が恋ひをらむ時の知らなく(15-3749)

【通釈】異国にあなたを行かせて、いつまで私は恋い慕っているのでしょうか。どれほどの時なのか、分からないのです。

【語釈】◇いませ お行かせして。この「います」は「行かせる」「居させる」などの意の尊敬語で、下二段活用動詞である。

 

天地の(そこひ)(うら)()がごとく君に恋ふらむ人はさねあらじ(15-3750)

【通釈】天地の果てまで探しまわっても、私のようにあなたを恋い慕っている人は絶対いないでしょう。

【補記】宅守の「人よりは妹ぞも悪しき恋もなくあらましものを思はしめつつ」等に応じた歌であろう。

 

白妙の()下衣(したころも)失はず持てれ我が背子ただに逢ふまでに(15-3751)

【通釈】私の下衣をなくさずに持っていて下さい、あなた。直にお逢いする時までずっと。

【語釈】◇持てれ 持っていなさい。「れ」は完了存続の助動詞「り」の命令形。

【補記】「下衣」は一連の歌と共に形見として贈ったものであろう。

 

春の日のうら悲しきに後れ居て君に恋ひつつ(うつ)しけめやも(15-3752)

【通釈】こんなにのどかな春の日の何となく悲しい時に、家に取り残されて、あなたを恋い慕いながら、正気でいられるものでしょうか。

 

逢はむ日の形見にせよとたわや()の思ひ乱れて縫へる衣ぞ(15-3753)

【通釈】再会する日までの形見にして下さいと、手弱女が心乱しながらも縫った衣がこれなのですよ。

【語釈】◇たわや女 もともと「たおやかな女」「若々しくしなやかな女」などの讃め詞だが、のち「手弱(たよわ)き」「た童(わらは)」等と音が似ていることから「手弱女」すなわち力の弱い女の意にも用いられた。

【補記】以上九首は、平城京にあって越前の宅守を偲んだ歌。

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たましひは朝夕(あしたゆふへ)に賜ふれど()が胸痛し恋の繁きに(15-3767)

【通釈】魂は朝に夕にありがたく受け止めておりますが、やはり現身(うつそみ)のあなたではないのですから、私の胸は痛みます、ひっきりなしに恋しくて。

【補記】宅守の「我が身こそ関山越えてここにあらめ心は妹に寄りにしものを」(3757)などを踏まえた歌か。

 

この頃は君を思ふとすべも無き恋のみしつつ()のみしぞ泣く(15-3768)

【通釈】今日この頃は、あなたを恋しく思う余り、どうしてよいかも分からず、ただ声をあげて泣いてばかりいます。

 

ぬば玉の夜見し君を明くる(あした)逢はずまにして今ぞ悔しき(15-3769)

【通釈】あの晩お逢いしたあなたと、明け方に別れてしまって、一緒に寝られなかったことを今になって悔しく思います。

【補記】「アハズマのまは助語にて只あはずなり」(代匠記)。

 

味真野(あぢまの)に宿れる君が帰り来む時の迎へをいつとか待たむ(15-3770)

【通釈】いま味真野に宿を取っておいでのあなたが都に帰って来られる時――お迎えできるその日をいつのことかとお待ちしておりましょう。

【補記】味真野は今の福井県武生市味真野町とその周辺。宅守の流刑地であろう。

 

宮人の安眠(やすい)も寝ずて今日今日と待つらむものを見えぬ君かも(15-3771)

【通釈】大宮人たちが安眠もできずに今日か今日かと待っておりますものを、姿をお見せにならないあなたですことよ。

【補記】宅守の「さす竹の大宮人は今もかも人なぶりのみ好みたるらむ」を承けた歌か。「宮人」を「家人」の誤字とする説もある。

 

帰りける人来たれりと言ひしかばほとほと死にき君かと思ひて(15-3772)

【通釈】赦免されて帰って来た人が都に着いたと伝え聞いたので、あやうく死にそうでした、あなたかと思って。

【語釈】◇ほとほと 「ほとんど」の古い形。

【補記】この歌との関連は不明だが、天平十二年(740)六月十五日、大赦があり、穂積老らは入京を許されたものの、石上乙麻呂・中臣宅守は罪を免ぜられなかった旨、『続日本紀』にある。

 

君が(むた)行かましものを同じこと後れて居れどよきこともなし(15-3773)

【通釈】あなたと一緒に行けばよかったものを。どうせ苦しむのは同じこと、都に残っていても何も良いことなどありはしない。

 

我が背子が帰り来まさむ時のため命残さむ忘れたまふな(15-3774)

【通釈】あなたが帰って来られる時のために命を残しておきましょう。お忘れにならないで。

【補記】以上八首は、配所から贈られた宅守の歌に答えたもの。

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昨日けふ君に逢はずてするすべのたどきを知らに音のみしぞ泣く(15-3777)

【通釈】昨日も今日も、あなたに逢えずどうすればいいか分からなくて、声を上げて泣いてばかりいます。

 

白妙の()が衣手を取り持ちて(いは)へ我が背子ただに逢ふまでに(15-3778)

【通釈】私の衣を手に持って、神にお祈りなさいあなた。じかに逢う日まで。

【補記】この二首も越前からの宅守の贈歌に答えたもの。


更新日:平成15年12月21日
最終更新日:平成20年09月24日