大輔 たいふ 生没年未詳

源弼(嵯峨天皇の孫)の娘。醍醐天皇の皇太子保明親王の乳母子(めのとご。乳母の実子)。同親王の寵愛を受けるが、親王は即位することなく延長元年(923)夭折した。その後、醍醐天皇の皇后藤原穏子に仕える。藤原実頼師輔朝忠・橘敏仲などに愛された。古今集初出(一首)、後撰集に十六首、玉葉集に一首。但し後撰集以下の「大輔」は古今集の「大輔」とは別人とする説もある。

道風しのびてまうできけるに、おや聞きつけて制しければ、つかはしける

いとかくてやみぬるよりは稲妻の光のまにも君を見てしか(後撰883)

【通釈】このまま逢えずに終わってしまうよりは、稲妻の光の間のようにほんの僅かでもあなたとお逢いしたいものです。

【補記】三蹟の一人として名高い小野道風(894-966)がひそかに通って来たが、親が聞きつけて逢うことを禁じたので、道風のもとに贈った歌。

【参考歌】よみ人しらず「古今集」
秋の田の穂のうへを照らす稲妻の光の間にも我や忘るる

かしこまる事侍りて里に侍りけるを、忍びて曹司にまゐれりけるを、大臣(おほいまうちぎみ)の「などか音もせぬ」などうらみ侍りければ

わが身にもあらぬ我が身のかなしきに心もことになりやしにけむ(後撰1200)

【通釈】思うに任せない我が身が悲しいところに、身ばかりでなく心も自分のものではなくなってしまったのでしょうか。

【補記】どのような事情があったか不明であるが、「かしこまる事」すなわち勘気を蒙ることがあって実家で謹慎していた時、大臣(左大臣実頼、右大臣師輔のいずれか)がそれと知らず宮中の大輔の部屋に忍び込んで「なぜ便りをくれないのか」と恨んだので詠んだ歌。思いがけぬ境遇となった身ゆえに、心も思うままにはならないのだと弁解した。

前坊おはしまさずなりてのころ、五節の師のもとにつかはしける

憂けれども悲しきものをひたぶるに我をや人の思ひすつらむ(後撰1203)

【通釈】五節を控えて涙など縁起でもないのですが、悲しくてならないのですよ。あの人は私を見捨てて死んでしまったのでしょうか。

【語釈】◇ひたぶるに ひたすら。ひたぶるに悲しき…の倒置。◇我をや人の 「人」は故親王を指す。

【補記】詞書の「前坊」は前皇太子、保明親王(903〜923)。延喜四年(904)、皇太子に立ったが、即位に至らず、同二十三年三月、二十一歳で夭折した。その頃、大輔が五節の舞の師(不詳)に贈ったという歌。大輔は保明親王の乳母子であったので、幼い頃から親しかったに違いない。親王と親しかったと思われる「五節の師」に思いを訴えた歌であろう。

人を亡くなして、かぎりなく恋ひて、思ひ入りて寝たる夜の夢に見えければ、思ひける人に「かくなむ」と言ひつかはしたりければ  玄上朝臣女

時のまもなぐさめつらむ覚めぬまは夢にだにみぬ我ぞかなしき

【通釈】あなたはひととき心も慰められたでしょう、目が覚めない間は。夢にさえあの人に逢えない私の方こそ悲しいのです。

【補記】大輔が亡き保明親王を夢に見て、親王の御息所であった藤原玄上女にその旨を伝えた。それに対して玄上女が答えた歌。

返し

かなしさのなぐさむべくもあらざりつ夢のうちにも夢と見ゆれば(後撰1421)

【通釈】この悲しさは慰められようもありませんでした。夢の中でさえ夢かと思うほど、はかない夢だったのですから。

先坊の君うせたまひにければ、大輔かぎりなく哀しみのみおぼゆるに、きさいの宮、后にたち給ふ日になりにければ、ゆゆしとて隠しけり。さりければよみていだしける

わびぬれば今はと物を思へども心に似ぬは涙なりけり(大和物語)

【通釈】つらいので、今はもう悲しむまいとは思いますけれども、心に添わないのは涙なのですよ。

【補記】「先坊の君」すなわち保明親王の死を悲しんで涙に暮れている大輔を、藤原穏子は立后にあたり、不吉として遠ざけた。穏子の立后は延長元年(923)四月二十六日。この歌は『大鏡』村上天皇条にもみえる。


公開日:平成12年09月04日
最終更新日:平成21年02月23日