藤原玄上女 ふじわらのはるかみがむすめ 生没年未詳

参議従三位藤原玄上(856-933)の娘。醍醐天皇の第二皇子で皇太子であった保明親王の御息所であったが、親王の死後、藤原敦忠の妻となる。しかし敦忠も若くして死に、その後は藤原文範(909-996)の妻となった(『大鏡』)。勅撰入集は後撰集の三首のみで、いずれも保明親王の死を悲しんだ歌である。

先坊うせ給ひての春、大輔につかはしける

あらたまの年越え()らし常もなき初鶯の音にぞなかるる(後撰1406)

【通釈】新しい年がやってくるらしい。初鶯の鳴く季節ですけれども、私は尋常でない、経験したことのない無常の悲しみに声あげて哭いています。

【補記】詞書の「先坊」は先の皇太子、保明親王。醍醐天皇第二皇子。延喜二十三年(923)三月二十一日、即位することなく二十一歳で没した。その年の春(すなわち亡くなった直後)、「大輔」に贈ったという歌。大輔は保明親王の乳母子(めのとご)として親王の寵愛を受けた女性で、後撰集の主要歌人の一人。大輔の返歌は「ねにたてて泣かぬ日はなし鶯の昔の春を思ひやりつつ」。

同じ年の秋

もろともにおきゐし秋の露ばかりかからむものと思ひかけきや(後撰1408)

【通釈】一緒に寝起きしていた去年の秋、こんなことになろうとは、露ばかりも思っただろうか。

【補記】保明親王が亡くなった翌年、すなわち延長二年(924)秋の作。「おき」「かかる」は露の縁語。「露ばかり」には「ほんの少し」の意がある。

【他出】定家八代抄、河海抄

【主な派生歌】
ふりすてて雲井はるかにすずか山かからむものと思ひかけきや(弁乳母)

人を亡くなして、かぎりなく恋ひて、思ひ入りて寝たる夜の夢に見えければ、思ひける人に、かくなむ、と言ひつかはしたりければ

時のまもなぐさめつらむ覚めぬまは夢にだに見ぬ我ぞかなしき(後撰1420)

【通釈】あなたはひととき心も慰められたでしょう、目が覚めない間は。夢にさえあの人に逢えない私の方こそ悲しいのです。

【補記】この歌は、保明親王の寵を競い合った大輔に贈ったもの。詞書は大輔の視点で書かれており、「思ひける人」は玄上女を指す。大輔の返しは「かなしさの慰むべくもあらざりつ夢のうちにも夢と見ゆれば」。なお『大鏡』では、大輔にこの歌を贈ったのは藤原貴子(忠平の娘)となっている。


公開日:平成12年08月24日
最終更新日:平成21年08月25日