花山院長親 かざんいんながちか 生年未詳〜正長二(1429) 法名:明魏 号:耕雲

花山院家賢の息子。母は花山院長親母として新葉集に歌を載せる歌人。祖父(師賢)・父の跡を継いで南朝に仕える。左衛門督・左大弁・右近大将などを歴任し、元中六年(1389)までに内大臣となる。『新葉集』選定後、諸国を流浪し、両統合体後、出家して洛北妙光寺に入り、応永二年(1395)、東山の如住院(花山院家の菩提寺)に移る。字を子晋、法諱を明魏と称した。やがて耕雲庵を構え、その庵号により「耕雲山人」とも称した。応永年間、将軍足利義満の知遇を得、歌道師範として信任を得る。
正平二十年(1365)の内裏三百六十首歌に出詠したのを始め、天授元年(1375)の南朝五百番歌合、同三年の内裏千首などに詠進。宗良親王に歌道の指導を受け、新葉集撰定に助力した。南北朝合体後の応永十五年(1408)、歌論書『耕雲口伝』を著し、同十八年、防長・豊島守護の大内盛見に古今集を講釈する。同二十六年(1419)には、後崇光院の仙洞歌会にも詠進し、同三十二年には正徹とも知遇を得た。正長二年(1429)七月十日、薨去。八十歳位か。
著作は『耕雲紀行』『両聖記』などがあり、源氏物語の研究や片仮名音義の研究等も残す。新葉集に二十五首、新続古今集に六首入集(明魏法師の名で)。個人歌集としては『耕雲千首』(南朝内裏千首の一)、『耕雲百首』(彰考館蔵の孤本)、『別本耕雲百首』(穂久邇文庫蔵の耕雲自筆本がある)などが伝存する。

  3首  2首  2首  1首  2首  4首 計14首

花山院の八本かかりの花をおもひやりてよみ侍りける

ふるさとの八本(やもと)の桜おもひ出でよ我が見し春は昔なりとも(新葉112)

【通釈】先祖代々住み馴れた京の家の八本の桜よ、私は今遠い地にいるけれども、花の咲く季節には私のことを思い出してくれ。おまえの美しい花盛りを眺めた春は遠い昔になったとしても。

【補記】詞書の「花山院」は冷泉天皇の里内裏となり、花山院の譲位後の住まいともなった京東一条の邸宅。その後、花山院家(藤原氏師実流)が伝領した。延元元年(1336)には後醍醐天皇が仮の皇居とし、建武の頃も内裏とした。東一条第とも言う。『耕雲千首』では題「古郷花」。

【参考歌】俊恵「林葉集」
白川の花も我をば思ひ出でよいづれの年の春か見ざりし
  殷富門院大輔「新古今集」
花もまたわかれむ春はおもひ出でよ咲き散るたびの心づくしを

植ゑたてしまろが桜も哀れなりともに老木の春はいつまで(耕雲百首)

【通釈】植え育てた私の桜も哀れなことだ。共に老いた私と木と、春はいつまで迎えることができるだろう。

【語釈】◇まろ 自称。和歌で用いるのは珍しい。◇ともに老木(おいき) 「共に老いき」の掛詞。

【補記】『耕雲百首』は晩年の作を集めた集で、「おそらく、庇護の厚かった足利義持が正長二年(1428)正月薨去する頃より翌年七月入滅までの耕雲最晩年の歌を中心に、後人が編纂したものと思われる」(新編国歌大観解題)。春の部には「見るほども老の心のなぐさまで花に涙のなどうかぶらん」など、老境の花への心情を切々と詠う歌が並ぶ。

【参考歌】藤原為家「続拾遺集」
我見ても昔はとほくなりにけりともに老木の唐崎の松

【主な派生歌】
うつし植ゑて共に老木の桜花なれも昔の春や恋しき(*太田道灌)

春月

老の世の(ほか)なる春をたづねばやわが身ひとつかおぼろ夜の月(耕雲百首)

【通釈】老いた我が人生の春とは別の春を訪ねてみたいものだ。こんなふうに思うのは私だけだろうか、朧夜の月よ。

【補記】大江千里の名高い秋の月の歌を、老の世の春の月に転じた。

【本歌】大江千里「古今集」「百人一首」
月見れば千々に物こそかなしけれわが身ひとつの秋にはあらねど
【参考歌】二条為世「文保百首」
人もまたかくやはなげくかなしさはわが身ひとつか秋の夕ぐれ

 

み吉野の山ほととぎす今しはや都に出づる声きこゆなり(五百番歌合)

【通釈】仲夏五月になった途端、吉野山の時鳥はもう早くも山を出て都へと向かって行く――その声が聞えるよ。

【補記】時鳥は初夏四月から鳴き始め、五月になると山から里へ出て、頻繁に鳴くとされた。京への郷愁を時鳥に託し、単純だが余韻の深い作。天授元年(1375)、長慶天皇内裏で吉野帰山中の宗良親王を判者に催行された南朝五百番歌合出詠歌。夏三、百二十八番左持。

【参考歌】宗良親王「宗良親王千首」
みよし野の山ほととぎす鳴くまでと花みし人をとめやおかまし

五百番歌合に

茂りあふ桜が下の夕すずみ春は憂かりし風ぞ待たるる(新葉239)

【通釈】葉が茂り合う桜の下での夕涼み――春には嫌われた風が、今は待ち望まれることよ。

【補記】南朝五百番歌合、百四十八番左勝。宗良親王の判詞(歌の形をとる)は、「風をまつ桜が下の夕すずみ花の時よりめづらしきかな」。

【参考歌】藤原定家「拾遺愚草」
夏ふかき桜が下に水せきて心のほどを風に見えぬる

七夕

私語(ささめき)のつくべき秋の一夜かは七夕ばかり憂き中はなし(耕雲百首)

【通釈】今宵、一年に一度逢える秋のたった一夜で、囁き交わす話の尽きるはずがあろうか。まことに七夕の恋人ほど辛い仲はない。

【補記】「ささめき」(内緒話、ひそひそ話)は、物語などではよく使われる語だが、和歌では用例を他に知らない。百人一首でも名高い忠岑詠の瀟洒な本歌取り。

【本歌】壬生忠岑「古今集」「百人一首」
有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂き物はなし

九月尽暁

暁の空にや秋のつきぬらん時雨にきほふ鐘の声々(耕雲千首)

【通釈】暁の空に秋は終末を迎えるのだろうか。時雨の音と競うように響く、鐘の声々よ。

【補記】晩秋九月最後の夜も更けて、暁を告げる鐘が鳴る。その音は時雨と響き合って、冬の到来を告げてもいるのだ。なお、「つきぬらん」の「つき」は「鐘」の縁語。

【参考歌】藤原家隆「壬二集」
詠むれば涙ももろし神無月時雨にきほふ木の葉のみかは

檜雪

を初瀬や桜にまじる檜原(ひばら)まで花咲きつづく雪の朝明け(耕雲千首)

【通釈】初瀬では、桜にまじって生える檜林まで花が咲き続けているように見える、雪の積もった朝明けであるよ。

【補記】一面に積もった雪が、桜林も檜林も花が咲いたように見せている。「をはつ瀬」は大和国の歌枕(奈良県桜井市初瀬)。初瀬川沿いに渓谷をなす。長谷寺で名高いが、桜と檜原の名所でもある。第三句「ひばらにて」とする本もある。

題しらず

知られじなしのぶの山の初しぐれ心のおくにそむる紅葉ば(新続古今1042)

【通釈】知られまいよ。信夫山の初時雨に濡れた紅葉ではないが、忍ぶ心の奥に染みついた恋の色は。

【語釈】◇しのぶの山 陸奥国信夫郡の歌枕。いまの福島市内にある山。「忍ぶ」を掛ける。

【補記】初句切れと言い、名所歌枕を暗喩的に用いる手法と言い、新古今に学んだ作風。初出は建徳二年(1371)二月、河内天野で行なわれた関白二条教頼主催「関白家三百番歌合」(残欠本のみ伝わる)。長親は「新中納言」の名で出詠。題は「寄雨恋」、二百二十八番右勝。

【参考歌】七条院大納言「新古今集」
はつ時雨しのぶの山の紅葉ばをあらし吹けとは染めずやありけむ

関白家三百番歌合に、寄鳥恋といふことをよみてつかはしける

嘆きつつ独りやさねん葦辺ゆく鴨のはがひも霜さゆる夜に(新葉662)

【通釈】歎きながら独り寝るのだろうか。葦辺を泳いでゆく鴨の羽交にも霜が冴え冴えと置いているこんな夜に。

【補記】これも建徳二年(1371)の関白教頼主催の歌合。二百三十八番右勝。新続古今集にも入集。万葉歌の巧みな摂取は、やはり新古今集を深く学んだ成果であろう。

【本歌】志貴皇子「万葉集」
葦辺ゆく鴨の羽交ひに霜降りて寒き夕へは大和し思ほゆ
  藤原清輔「新古今集」
君来ずは独りや寝なむ笹の葉のみ山もそよにさやぐ霜夜を

文貞公の例とて三位中将にて左大弁を兼じ侍りける除書をみてよめる

親の親のためしをみつる我が身かな君の君なる代につかふとて(新葉1243)

【通釈】親の親すなわち祖父の先例を踏んだ我が身であることよ。君の君すなわち最もすぐれた大君の御代にお仕えするとて。

【補記】文貞公は作者の祖父花山院師賢。除書は除目に同じ。作者が中将に左大弁を兼ねたのがいつかは不明。

妙光寺内大臣みまかりて後、三年の服いまだはてざりけるに、又後村上院の素服を給はりて思ひつづけ侍りける

みとせまでほさぬ涙の藤衣こは又いかにそむる袂ぞ(新葉1349)

【通釈】父の喪三年に服している間、涙で乾くことのない藤衣であったのに、このたびは天皇が崩御され、この袂は涙でどんなに染まることか。

【補記】哀傷歌。長親の父家賢が亡くなって三周忌が果てないうちに、今度は後村上天皇が崩じ、その喪服を宮廷より賜った時の感慨。なお家賢の薨去は正平二十一年(1366)五月、後村上天皇の崩御は翌々年の二十三年三月であった。「いかにそむる」には血涙を暗示していよう。

【参考歌】藻璧門院少将「続古今集」
袖のうへにほさぬ涙の色見えばいかにせんとかねのみなくらん

山家路

み吉野やわが山ぶみぞ年へぬるうき世をいづる道はしらねど(耕雲千首)

【通釈】吉野に住むようになって、山を踏んで歩き回ることも年を経た。もはや知らぬ山道とてない。憂き世から出るための道だけは知らないけれど。

【補記】題詠であるが、当時吉野山中に住んでいた作者自身の感慨を込めた歌であることは疑いない。千首歌を作った天授三年(1377)当時、作者はまだ三十代初め。出家の願いを遂げるのは、四十代半ばのことである。

【参考歌】静仁法親王「続千載集」
老の身に吉野の嶺のすず分けてうき世をいづる道は知りにき
  頓阿「草庵集」
西へ行く道より外はいまの世に憂世をいづるかどやなからん

高山待月

峰たかくわが身をおきて月よりも人に待たるる光はなたむ(別本百首)

【通釈】峰の高いところに我が身を置いて、月よりも人々から待望されるような、そんな光明を放とう。

【補記】別本耕雲百首。「奥書によると足利義持の命によって詠んだもの(応永二一年〈1414〉頃の詠作と考えられる)を書写して、大内持世に進呈したものである」(新編国歌大観解題)。禅僧として精進し、世に尽くす決意を籠めた歌と思われる。


公開日:平成15年06月22日
最終更新日:平成21年07月10日