花山院家賢 かざんいんいえかた 生年未詳〜正平二十一(?-1366) 号:妙光寺内大臣

師賢の二男。母は右大臣花山院家定女(妙光寺内大臣母として新葉集に歌を載せる)。南朝の大納言信賢の弟。長親(耕雲)・長賢の父。
生年は元徳二年(1330)かとも言うが、公卿補任は嘉暦三年(1328)叙爵の記事を載せる。元弘二年(1332)、後醍醐天皇の討幕に関わった父は下総国に流罪となり、配所で病死した。北朝で左少将・右中将などを歴任した後、貞和三年(1347)十一月、従三位に叙せられる。同四年四月、参議に任ぜられる。文和二年(1353)十二月には権中納言に進むが、翌年辞退し、正平十八年(1363)頃までに南朝に参仕した。その後内大臣に至る。
正平十八年(1363)の名所百首、同二十年の内裏三百六十首・内裏四季歌合・内裏七百首歌等に出詠し、また自邸で百首歌を催すなど、南朝歌壇の中心人物として活躍した。勅撰入集は新続古今集に一首のみ。新葉集には五十三首入集。

曲水宴の心を

めぐりあふ今日はやよひのみかは水名にながれたる花のさかづき(新続古今179)

【通釈】月日は巡り来て今日は弥生の三日となり、御溝水(みかわみず)を流れゆく、その名も永く伝わる曲水(ごくすい)の宴の花の盃よ。

【補記】「曲水宴」は、陰暦三月三日、宮中や貴族の庭園で行なわれた宴。曲溝に引き入れた水の流れに酒杯を浮かべ、詩歌を詠じた。「めぐり」は盃の縁語になる。「みかは水」は、内裏に設えられた側溝の水。「三日(みか)」と掛詞。「花の盃」は曲水の宴に用いられる盃を言う当時の常套表現。この歌、新葉集巻二春下にも載る。

三光国師入滅の時、よみ侍りける

あま小船(をぶね)のりしる人はさきだちつ苦しき海を誰かわたさん(新葉626)

【通釈】船頭を失った船客のように、我らは途方に暮れている。法を知る人は我らを残して逝ってしまわれた。この苦海を誰が導いて渡してくれるのだろうか。

【補記】「のり」に「乗り」「法」を掛けている。「苦しき海」は苦海の訓読語で、俗世のこと。正平十六年(1361)五月二十四日、後醍醐天皇・後村上天皇も帰依した三光国師(孤峯覚明)が九十一歳で入滅した時の作。同師開山の和泉大雄寺は南朝の一大拠点となった。新葉集は釈教歌として収める。

【参考歌】懐尋法師「金葉集」
うき身をしわたすときけば海人小船のりに心をかけぬ日ぞなき
  覚性法親王「玉葉集」
たかせ舟くるしき海のくらきにものりしる人はまどはざりけり


最終更新日:平成15年06月08日