天平二年(730)十二月、正六位上大和介、勲十二等(寧樂遺文)。同四年八月、外従五位下山陰道節度使判官。天平十年(738)八月二十日、右大臣橘諸兄宅の宴に参席し歌を残している(万葉集巻六)。この時、長門守とある。
秋八月二十日、右大臣橘家に宴する歌
長門なる沖つ借島奥まへて
【通釈】我が任国長門にある沖の借島――その沖ではありませんが、奥すなわち将来をかけて私がお慕いするあなたは千年も長生きしてほしい。
【語釈】◇沖つ借島 所在不詳。下関市や萩市の沖合の小島と見る説がある。◇奥まへて 「奥まけて」の転。将来をかけて。
【補記】天平十年(738)八月二十日、右大臣橘諸兄の家で催された宴に出席した時の歌。左注から作者が当時長門守の地位にあったことが知られ、任地の島に因んで「長門なる沖つ借島」を出し、「沖」から「奥」を導いて、宴の主人である諸兄に対する祝意を述べた。
更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成20年12月27日