丹比屋主 たじひのやぬし 生没年未詳

丹比乙麻呂の父(万葉集巻八の題詞脚注)。万葉集に二首の歌を残す。
天平十二年(740)十月に京を出発した聖武天皇の関東行幸に従駕するが、河口行宮より京に帰還した(万葉集巻六の左注)。また万葉集巻八の題詞によれば、天平年間に大蔵少輔の地位にあった。
続日本紀に見える丹比(多治比)屋主は神亀元年(724)二月に従五位下に叙せられ、備前守・左大舎人頭などを歴任している。しかし万葉集の丹比屋主はこれとは別人物で、天平九年に従五位下に叙せられた丹比家主であろうとする説もある(万葉集古義)。

丹比屋主真人の歌一首

後れにし人を(しの)はく四泥(しで)の崎木綿(ゆふ)取り()でて(さき)くとそ思ふ(万6-1031)

【通釈】都に残して行った人を思っては、四泥の崎という名のように、木綿を取りしでて、無事を祈っている。

【語釈】◇後れにし人 平城京に留まった人。作者の妻か恋人を指すのであろう。◇四泥の崎 今の三重県四日市市大宮町あたりにあった出洲という。◇木綿取り垂でて この木綿(ゆふ)は幣帛として用いたもの。榊の枝などに垂らして神事を行なった。

【補記】旅先の地名にかけて望郷の思いを歌う。万葉集巻六に天平十二年冬の聖武天皇関東行幸の際の歌として収録されているが、左注の「勅大夫従河口行宮還京勿令従駕焉(大夫に勅して河口の行宮より京に還し、従駕せしむることなし)」の記事を信じれば、この行幸ではあり得ない。四泥の崎は河口行宮より先の行程に属するからである。養老二年(718)春の元正天皇の美濃国行幸の際の歌などが錯入したか。あるいは行幸に従駕し鈴鹿郡赤坂頓宮で叙位されている家主と屋主とを混同したかとも言う(万葉集古義)。

大蔵少輔丹比屋主真人の歌一首

難波辺(なにはへ)に人の行ければ後れ居て春菜摘む子を見るが悲しさ(万8-1442)

【通釈】難波のあたりに夫が行ってしまったので、ひとり残されて春菜を摘む奥さんを見るのが不憫だ。

【補記】巻八春雑歌。難波に行った「人」は「春菜摘む子」の夫を指す。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成20年12月27日