惟喬親王 これたかのみこ 承和十一〜寛平九(844-897)

文徳天皇の皇子。母は紀静子。同母妹に斎宮恬子内親王がいる。古今集に歌を残す兼覧王の父。系図
嘉祥三年(850)四月、父が即位。第一皇子であり幼少より聡明だった惟喬親王は父からも立太子を望まれたが、右大臣藤原良房らの圧力により実現に至らず、同年十一月、良房の娘、女御明子(あきらけいこ)所生の惟仁親王が数え一歳で立太子した。天安元年(857)元服して四品に叙せられ、大宰帥・弾正尹・常陸太守・上野太守などを歴任。貞観十四年(872)、病を理由に出家し、山城国愛宕郷小野に住んだ。在原業平遍昭、伯父紀有常ら歌人と交流し、たびたび詩歌の宴を催した。寛平九年、五十四歳で薨去。京都市左京区大原上野町に親王の墓と伝える五輪の塔がある。
古今集に二首、新古今集・続後拾遺集・新千載集に各一首。

伝惟喬親王墓
惟喬親王御墓と伝わる五輪塔 京都市左京区大原上野町

僧正遍昭によみておくりける

桜花散らばちらなむ散らずとてふるさと人の来ても見なくに(古今74)

【通釈】桜の花よ、散るなら散るがいい。散らずに残っていたところで、郷里の人が見に来てくれるわけでもないのに。

【語釈】◇ふるさと人 郷里(平安京)の人。暗に遍昭を指している。

【補記】遍昭を遠まわしに「ふるさと人」と呼んで、京を離れ寂しく暮らしている自分のもとを訪ねてほしいとの思いを婉曲に伝えている。桜に対する呼びかけとして言ったところ、孤愁が迫り、一首の趣を深くしている。出家して京北郊の小野に住んでいた時の歌にちがいない。遍昭は京の雲林院に住んでいた。

【他出】新撰和歌、古今和歌六帖、俊頼髄脳、古来風体抄、定家八代抄、秀歌大躰、新時代不同歌合、桐火桶

【主な派生歌】
見るほどに散らば散らなむ梅の花しづ心なく思ひおこせじ(和泉式部[玉葉])
たづねても故郷人の見ぬ桜をしまぬ花に春風ぞ吹く(藤原家隆)
今日こずは明日とも待たじ桜花いたづらにのみ散らば散らなむ(西園寺公経[続千載])
花にふる日数もしらず今日とてや古郷人の我を待つらむ(宮内卿[新後拾遺])
待つ人はこじまのさきの春風に散らば散らなむ山吹の花(藤原為家)
桜花散らば散らなむ遠つ神わがおほきみの衣笠の上に(*加納諸平)

題しらず

白雲のたえずたなびく峯にだにすめばすみぬる世にこそありけれ(古今945)

【通釈】白雲が絶えず棚引いている峰でさえ、住んでみれば住んでしまえる、そんな世の中であったのだ。

【補記】『貫之集』にほとんど同じ歌が見える。「白雲のたえずたなびく嶺にだにすめばすまるる世にぞ有りける」。『古今和歌六帖』には作者不明記で載り、また『小町集』などにもそっくりな歌が採られている。

【他出】古今和歌六帖、万葉集時代難事、新時代不同歌合

【主な派生歌】
月影もすめばすみけり白雲の絶えずたなびく峰の木枯らし(藤原家隆)
春は花冬は雪とて白雲のたえずたなびくみ吉野の山(西園寺公経[新勅撰])

世をそむきて、小野といふところに住み侍りける頃、業平朝臣の、雪のいと高うふりつみたるをかきわけて詣で来て「夢かとぞ思ふ思ひきや」とよみ侍りけるに

夢かともなにか思はむ憂き世をばそむかざりけむ程ぞくやしき(新古1720)

【通釈】どうして夢かなどと思いましょうか。憂き世を出離しなかった頃こそ悔やまれてなりません。

【語釈】◇小野 山城国愛宕郡小野郷。惟喬親王の隠棲地は今の京都市左京区大原あたりと伝わる。◇なにか思はむ どうして思おうか。◇そむかざりけむ程 出家を遂げていなかった頃。

【補記】伊勢物語異本の第八十三段に見える歌。詞書の業平の歌は「忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪ふみわけて君を見むとは」(古今集・伊勢物語)。

【他出】伊勢物語、新時代不同歌合

【主な派生歌】
夢かとも里の名のみやのこるらむ雪も跡なき小野のあさぢふ(藤原定家)
世を憂しと思はざりけむ昔こそ此頃よりもはかなかりけれ(雅成親王)
いつか我そむかざりけむいにしへをくやしき物と思ひ知るべき(九条行家[新後撰])

題しらず

入る月に照りかはるべき紅葉さへかねてあらしの山ぞさびしき(新千載567)

【通釈】沈む月に代って夜を照らすべき紅葉さえ、すでに嵐に吹き払われて残っていない山――なんと索漠としていることよ。

【語釈】◇照りかはるべき 沈んだ月に代って夜を照らすべき。◇かねてあらしの山 前以て嵐に吹き払われて、(紅葉さえ)ないだろう山。「あらし」に「嵐」「あらじ」または「あら(ず)」を掛ける。

【補記】この歌は『雲葉集』に「秋歌とて 惟喬親王」として採られている。のち、『夫木和歌抄』にも採録された。


更新日:平成15年01月07日
最終更新日:平成21年05月03日