河内女王 かわちのおおきみ 生年未詳〜宝亀十(?-779) 略伝

高市皇子の子。長屋王の同母または異母妹。
天平十一年(739)正月、従四位下より従四位上に昇叙。同十六年(744)秋か冬、左大臣橘諸兄邸に元正上皇を招いての宴に粟田女王らと参席、歌を詠む。天平二十年(748)三月、正四位下。天平宝字二年(758)八月、大炊王即位(淳仁天皇)に伴い、従三位。同四年五月、正三位。この時は「河内王」とあるが、おそらく女王と同一人。その後位階を剥奪されたらしく、宝亀四年(773)正月、不破内親王の四品復位と同じ日、正三位に復位される。これは四年前の神護景雲三年(769)五月、不破内親王・県犬養姉女らの厭魅事件に連座して剥奪された官位を復されたものと思われる。宝亀十年(779)十二月二十三日、薨ず。

河内女王の歌一首

橘のしたでる庭に殿建てて酒みづきいます我が大君かも(万18-4059)

【通釈】橘の実が照り映える庭に御殿をお建てになって、御酒(みき)に浸っておられる我が大君であらせられるよ。

【語釈】◇したでる 不詳。シタはシタヒ(「秋山のしたへる妹」02-0217)と同根で、赤く色づく・赤く照るの意か。または下萌え(ひっそりと芽生える)などと同例で、うっすらと照る意か。

【補記】「わが大君」は宴の主賓であった元正太上天皇。左注には「右件歌者、在於左大臣橘卿之宅肆宴御歌并奏歌也」とあり、「左大臣橘卿」すなわち橘諸兄の邸宅で宴を催した時の作。粟田女王も同席して歌を詠んでいる。天平二十年(748)、田辺福麻呂が越中で大伴家持に伝誦し、記録されたもの。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日