石上麻呂 いそのかみのまろ 舒明十二〜霊亀三(640〜717)

物部宇麻呂の子。乙麻呂の父。氏姓は初め物部連。天武十三年の八色の姓の制定によって物部朝臣となり、のち石上に改姓した。
壬申の乱では最後まで近江方につき、皇子の首を吉野方に引き渡した。天武朝でも重用され、天武五年(676)、遣新羅大使。持統四年(690)一月、持統天皇即位の際、大楯を立てる。同六年三月、伊勢行幸に従駕し、歌を詠む(万葉1-44)。持統十年(696)十月、舎人五十人の私用を許される。大宝元年(701)三月、藤原不比等・紀麻呂と共に大納言となる。同二年八月、兼大宰帥。同四年一月、右大臣。和銅元年(708)一月、正二位。同年三月、左大臣。同三年三月、平城京遷都の際、留守官。霊亀三(717)三月、薨ず。七十八歳。贈従一位。「百姓追慕して痛み惜しまずといふこと無し」(続日本紀)。

石上大臣の従駕(おほみとも)にして作る歌

吾妹子(わぎもこ)をいざ見の山を高みかも大和の見えぬ国遠みかも(万1-44)

【通釈】いとしい妻をいざ見よう、という名の去来見(いざみ)山が高すぎるのかな。大和の国が見えないよ。それとも国が遠すぎるのかな。

【語釈】◇いざ見の山 三重県飯南郡の秀峰、高見山かという。イは添辞として「佐見の山」と考え、三重県度会郡の二見ヶ浦の山とする説もある。「いざ見」(さあ見よう)が掛けてある。

【補記】持統天皇の伊勢国行幸に従駕した時の歌。「高みかも。大和の見えぬ。」と、三句・四句で切れる。

【主な派生歌】
雲もゐず秋の月夜はてらせれどやまとは見えず国とほみかも(本居宣長)


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年04月17日