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上下二巻からなり、上巻は主に和歌の歴史を述べ、万葉集全巻からの抄出歌を付す。下巻は、古今集から千載集までの七代の勅撰集からの抄出が中心。随所に俊成独自の歌観を披瀝していますが、むしろ古来の秀歌を列挙することによって、おのずと和歌の「風躰」(心と詞から成る様式。歌の総体的な有様)を感じ取らせ、学び取らせることを眼目とした書物であると言えましょう。上代歌謡から同時代の作まで、広いパースペクティブのもとに和歌史全体が概観され、整然たる構成をそなえています。
以下には、『日本歌学大系』第二巻(風間書房)に翻刻された再選本から、数節を抜萃し、現代語訳と簡単な解説を付けました。きわめて断片的な引用であり、到底原典の全体を窺うには足りません。エッセンスとさえ呼べるものではないでしょう。取りあえず、俊成の和歌観を一瞥する手立てとなれば、と思うばかりです。(テキスト全文の打ち込みはほぼ終わっているのですが、未校正であり、全文掲載にはまだ時間がかかりそうです。)
歌のよきことをいはむとては、四條大納言公任卿は金のたまの集となづけ、通俊卿の後拾遺の序には、こと葉ぬひものゝ如くに、心うみよりも深しなど申しためれど、かならずしも錦ぬひものゝ如くならねども、歌はたゞ、よみあげもし、詠じもしたるに、何となく艶にもあはれにも聞ゆる事のあるなるべし。もとより詠歌といひて、こゑにつきて、よくもあしくも聞ゆるものなり。
【訳】どんな歌が良いかということを言うと、四条大納言公任卿は、(その私撰集に)『金玉集(きんぎょくしゅう)』と名付け、また通俊卿の(編纂した)『後拾遺集』の序には「詞は縫物の如くに(巧みに編まれ)、心は海よりも深し」などと申しているが、必ずしも錦の縫物のようでなくても、歌はただ、口に出して読んだり詠じたりしてみると、何となく優美に聞えたり、情趣深く聞えたりすることがあるものだ。そもそも「詠歌」と言うように、声調によって、良くも悪くも聞えるものなのである。
【解説】序文的な章において、「歌のよきこと」について述べた部分。「歌はたゞ、よみあげもし、詠じもしたるに、何となく艶にもあはれにも聞ゆる事のあるなるべし」は、俊成の歌論の要約としてよく引用される。言葉遣いの巧みさや、心(意味内容)の深さを言う前に、まず歌の良し悪しは調べ(韻律美)に左右される。歌はまず何より《歌われる》ものだからである。そして「艶にもあはれにも」聞えるのが、すぐれた歌の必要条件だというのである。
但上古の歌はわざと姿をかざり詞をみがゝむとせざれども、代もあがり、人の心もすなほにして、たゞ詞にまかせていひいだせれども、心もふかく、すがたも高くきこゆるなるべし。
【訳】ただ、上古の歌は、意図的に姿を飾り、詞を錬磨しようとはしないけれども、時代が昔のことで、人の心も素直で、ただ自然と詞の出て来るのにまかせて言い出したのだけれども、心も深く、姿も高く(立派で格調高く)感じられるのにちがいない。
【解説】仁徳天皇や聖徳太子、万葉集の歌を引用した後に、上古の歌について評を加えた文である。詞を飾ることより率直な心の表出を尊重した俊成が、上代歌謡や万葉集を高く評価したことは当然であろう。なお、俊成は万葉集を、聖武天皇の勅により橘諸兄が撰した勅撰集であるとしている。
それよりさき、柿本の人麿なむ殊に歌のひじりにはありける。これはいと常の人にはあらざりけるにや。かの歌どもは、その時の歌のすがた心にかなへるのみにもあらず。とき世はさまゞゝあらたまり、人の心も歌の姿も、折につけつゝうつりかはるものなれど、かの人の歌どもは、上古・中古、今のすゑの代までをかゞみけるにや。昔の世にも、末の代にも、みなかなひてなむみゆめる。
【訳】それ(聖武天皇代、萬葉集が撰ぜられた頃)より以前では、特に柿本人麿が歌聖であった。この人は全く常人ではなかったのか、彼の歌は、当時の歌の姿や心に叶っていただけではない。時代が様々に改まり、人の心も歌の姿も、折につけ移り変わるものだけれども、かの人の歌々は、上古・中古から今の末世までを、すべて見通していたからだろうか、昔も今も、どんな時代にも適って見えるようである。
【解説】人麿を、時代を超越した歌聖と見ている。「常に時代に適っている」とは、人麿の歌が決して古びず、常に新鮮なものとして享受され、仰がれてきたことを言うのである。
其後延喜のひじりのみかどの御時、紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠峯などいふ者ども、この道にふかゝりけるをきこしめして、勅撰あるべしとて、古今集は撰びたてまつらしめ給ひけるなり。此集の頃ほひよりぞ、歌のよきあしきも、えらびさだめられたれば、歌の本體には、たゞ古今集をあふぎ信ずべき事なり。萬葉集よりのち、古今集のえらばるゝことは、代々へだゝり、としゞゝかずつもりて、歌のすがた詞づかひも、ことのほかにかはるべし。
【訳】その後(萬葉集の後)、延喜の聖帝(醍醐天皇)の御治世に、紀友則・紀貫之・凡河内躬恒・壬生忠岑といった歌人が歌の道を深く悟っているとお聞きになって、勅命により撰集すべしということで、古今集を編集して献上おさせになったのである。(萬葉集は歌を精撰しなかったけれども)古今集の時から、歌の善悪を判断し選び定めるようになったのであるから、歌のまことのかたちとしては、ただ古今集を(理想と)仰ぎ信じるべきである。萬葉集の後、古今集が選ばれるまでは、多くの代が間にあり、歳月が積って、歌風も言葉遣いも、すっかり変わったのは当然である。
【解説】「歌の本體には、たゞ古今集をあふぎ信ずべき事なり」もよく引き合いに出される文句である。万葉集は「心も深く、姿も高く」すぐれているが、歌の良し悪しを十分「選び定め」ているとは言えない。それに対して、古今集は初めての精撰された勅撰和歌集である。すなわち、夾雑物を排除した純粋な和歌の言語空間を最初に築いたのが古今集である。だからこそ、古今集が「歌の本體」として尊重されたのである。
なお、本書の別のところで俊成は「萬葉集は、時代久しく隔たり移りて、歌の姿・詞、うちまかせて学び難かるべし。古今の歌こそは歌の本體と仰ぎ、信ずべき物なれば…」とも言っている。俊成が古今集のどんな歌を特に高く評価したかは、下記「勅撰集秀歌抜萃」の章を見られたい。
病といふなる事は、時代のあらたまりへだゝりて、物しりだてける人どもの、式をつくりなどしける程に、病どもをたてゝいひなやましてけるぞとてこそあらまほしけれ。古き歌どもをさへあらぬさまにいひなせる事あやしくみえ侍る事也。先達の事を申すはよしなけれども、又今すこしあがりての人のよみけむ心にたがひていひなす事は、いますこしはゞかりあるべき事なれば申し侍る也。
【訳】歌の病というようなことは、時代が改まり(上代から)隔たって、物知りぶっていた人どもが、式(規則)を作ったりした挙句、病などを言い始めて人を混乱させたのだ、ということにしたいものだ。古歌までも不適当にあげつらうなど、卑しく見えることである。先達のことを言うのははしたないけれども、しかし上代の人の詠んだ心を勘違いしてあれこれ言うことは、もう少し遠慮すべきことであるから、敢えて申し上げるのである。
【解説】「歌病(かへい、かびょう)」とは、和歌における修辞上の欠陥と考えられたこと。奈良時代、藤原浜成が『歌経標式』で漢詩における詩病を模倣して取り入れたのが最初であった。俊成はこれらを実作と遊離した形式的な制約にすぎないとして批判し、同心病(一首のうちに同語または同義語を繰り返し用いること)を除いて「そのほかの病どもは、避(さ)りあふべき事とも見え侍らず」と意義を認めていない。
「古き歌どもをさへあらぬさまにいひなせる事」とは、公任・俊頼といった過去の歌学者が、同心病に関して王仁の作と伝える古歌「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春辺と咲くやこの花」を論っていることを批判しているのである。この歌につき俊成は「昔の歌はわざと二度いへるなり」と、全く正当な指摘をしている。
題しらず よみ人しらず
折りつれば袖こそにほへ梅の花ありとやここに鴬の鳴く
已上此歌ども、何れも姿心いみじくをかしく侍り。そのうち、この歌梅ををりける袖の深く匂ひけるを、こゝには花はなけれども、鴬の香をたづね来てなくらむ心めでたく侍るなり。
やよひの閏月ありける年よめる 伊勢
櫻花春くはゝれるとしだにも人の心にあかれやはせぬ
としだにもといひ、あかれやはせぬといひはげましたる心姿、限りなく侍る也。
やよひのつごもり雨の降りけるに藤の花ををりて人につかはしける 業平の朝臣
濡れつつぞしひて折りつる年のうちに春はいくかもあらじと思へば
しひてといふ言葉に、姿も心もいみじくなり侍るなり。歌は唯一言葉にいみじくも、深くもなる物に侍る也。
仙宮に菊を分けて人のいたれるかたを読める 素性法師
濡れてほす山路の菊の露のまにいつか千とせを我はへにけん
此歌濡れてほすとおける五文字の殊にめでたく侍るに、又山路の菊の露のまにといへるもありがたくつづけて侍るによりて、すゑの句もなにとなくひかれて、いみじくきこゆるなり。
しがの山越にて石井のもとにて物いひける人に別れける時よめる 貫之
むすぶ手のしづくににごる山の井のあかでも人にわかれぬるかな
此歌むすぶ手のとおけるより、しづくににごる山の井のといひて、あかでもなどいへる、大方すべて言葉ことのつゞき、すがた心かぎりなく侍るなるべし。歌の本體はたゞ此歌なるべし。
おきの国に流されける時、舟に乗りて出立つとてよめる 小野篁
わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人にはつげよあまの釣舟
ひとにはつげよといへるすがた、心たぐひなく侍る也。
五条の后宮の西の對に住みける人を、行へ知らず成りて又のとし、梅の花ざかりに月のかたぶくまであばらなる板敷にふして、こぞを戀ひて讀みける 業平朝臣
月やあらぬ春やむかしの春ならぬ我身ひとつはもとの身にして
月やあらぬといひ、春やむかしのなどつゞける程のかぎりなくめでたき也。
東宮に侍ひける繪に、倉梯山に時鳥なきたる所をよめる 藤原實方朝臣
さ月やみくらはし山のほとゝぎすおぼつかなくもなきわたるかな
此歌まことにありがたくよめる歌なり。よりていまの世の人歌の本體とする也。されどあまりに秀句にまつはれり。これはいみじけれどひとへにまなばむにはいかゞ。
九條右大臣家の屏風によめる 平兼盛
あやしくも鹿の立どのみえぬかなをぐらの山にわれや来ぬらむ
これほどの秀句はこひねがふべし。
少将に侍りける時駒迎へにまかりてよめる 太宰大貳高遠
相坂のせきのいはかどふみならし山立ちいづるきりはらのこま
延喜御時月次御屏風歌 紀貫之
あふさかのせきの清水にかげ見えていまやひくらんもち月のこま
此ふたつの歌はとりゞゝにまことにめでたき歌なり。
くれの秋重之がせうそこしたる返事によめる 平兼盛
くれてゆく秋のかたみにおく物はわがもとゆひの霜にぞ有りける
これこそあはれによめる歌に侍るめれ。
いなりにまうでゝけさうしはじめて侍りける女の、こと人にあひて侍りければつかはしける 長能
我といへばいなりの神もつらきかな人のためとはいのらざりしを
此歌いみじくをかしきすがたなり。たゞそのふしとなけれど、歌はかくよむべきなるべし。
神祇伯顯仲廣田社にて歌合し侍りけるに、寄月述懐の心をよみ侍りける 左京大夫顯輔
難波江のあしまにやどる月みれば我身ひとつもしづまざりけり
此歌いみじくをかしき歌なり。これは拾遺集に菅原文時歌に、
水の面に月のしづむをみざりせばわれひとりとや思ひはてまし
といへる歌をいますこし優にひきなしてみえ侍るなり。此歌はむかしの歌にもはぢざる歌なり。
大江擧周朝臣重くわづらひて限りにみえければよめる 赤染衛門
かはらむと思ふ命はをしからでさてもわかれむ事ぞかなしき
此歌いみじくありがたく、あはれによめる歌なり。
【解説】以上、俊成が古今集から千載集までの七代の勅撰集から抜萃した歌のうち、短評を付して特に高く評価している歌のみを選んで掲げた。
俊成が「歌の本體」としているのが貫之の「むすぶ手のしづくににごる山の井のあかでも人にわかれぬるかな」であり、また実方の「さ月やみくらはし山のほとゝぎすおぼつかなくもなきわたるかな」を「ありがたくよめる」と賞讃しつつ「あまりに秀句にまつはれり」(縁語・掛詞などの技巧的表現に拘泥しすぎている)と指摘している点などが注目される。