大原真人高安
おおはらのまひとたかやす
- 生没年 ?〜742(天平14)
- 系譜など もとの名は高安王。父母等は未詳。『新撰姓氏録』によれば敏達天皇の孫である百済王の後裔。『皇胤紹運録』は長皇子の孫で川内王の子とするが、長皇子は天智2年(663)生まれの天武第3皇子大津皇子より年少であり、高安王は初叙の年(和銅6年=713年、従五位下)からして693年以前の生まれになるので、高安王を長皇子の孫とするのはかなり苦しい(長皇子は30歳以前に孫をもうけたことになってしまう)。弟に門部王・桜井王、子に高田女王がいる。一説に大原今城の父とするが、確かな根拠はない。大原真人氏については今城の略伝参照。
- 略伝 713(和銅6)年1.23、無位より従五位下に叙せられる。717(霊亀3)年1.4、従五位上。719(養老3)年7.13、伊予守として阿波・讃岐・土佐三国の按察使を兼ねる。これ以前に紀皇女(天武天皇の皇女。但し多紀皇女―天武天皇の皇女で、志貴皇子の室―の誤りとみる説もある)と密通し、伊予国守に左降されたらしいことが万葉集に見える(12/3098)。
おのれゆゑ罵(の)らえて居れば青馬の面高夫駄(おもたかぶた)に乗りて来べしや
右の一首、平群文屋朝臣益人伝へて云く、昔、紀皇女、竊(ひそ)かに高安王と嫁(あ)ひて嘖(せ)められし時に、此歌を作り給ひきといへり。但し高安王は、左降して伊与国の守に任(よ)さされしのみ。
721(養老5)年1.5、正五位下。724(神亀1)年2.22、正五位上。この年以前、娘の高田女王が今城王(後の大原今城か)に贈った歌6首が万葉集に見える(04/0537〜0542)。727(神亀4)年1.27、従四位下。731(天平3)年頃、「大納言大伴卿(旅人)、新しき袍を摂津大夫高安王に贈る歌」がある(04/0577)。
我が衣人にな着せそ網引(あびき)する難波壮士(なにはをとこ)の手には触るとも
732 (天平4)年10.17、衛門督に任じられる。733(天平5)年1月、県犬養橘三千代の葬事を監護。735(天平7)年9月、新田部親王の葬事を監護。737(天平9)年9.28、従四位上。739(天平11)年4.3、請願が許されて大原真人の姓を賜わる。弟の門部王・桜井王、および親族と思われる今城王もこれ以降大原氏をなのる。740(天平12)年10月、関東行幸に従駕し、11.14、鈴鹿郡赤坂頓宮で正四位下に昇叙される。恭仁京遷都後の742(天平14)年12.19、卒す。この時も正四位下とある。
746(天平18)年8.7、越中守大伴家持の館での宴で僧玄勝が大原高安真人の歌を伝誦している(17/3952)。
古歌一首大原高安真人作る 年月不審 但し聞きし時の随に茲に記載す
妹が家に伊久里の杜の藤の花今来む春も常かくし見む
右の一首、伝へ誦むは僧玄勝なり
伊久里は一説に富山県砺波郡井栗谷付近とされるが(奈良県内や新潟県三条市井栗とする説もある。下記関連サイト参照)、越中砺波郡には門部王や大原真人麿の墾田があったことが知られ(米沢康)、大原真人氏と縁の深い土地であったらしい。
万葉にはほかに、鮒を娘子に贈る歌1首があり、題詞脚注に「高安王は後、姓大原真人氏を賜る」とある(04/0625)。また巻8夏相聞には「高安歌一首」として下記の歌が載り、この「高安」は大原高安と見られる(08/1504)。
暇(いとま)なみ五月をすらに我妹子が花橘を見ずか過ぎなむ
関連サイト:万葉の藤(新潟県三条市)
高安王の歌(やまとうた)
表紙へ