大海人皇子
おおしあまのみこ
- 生没年 ?〜686(天武15)
- 系譜など 父は田村皇子(舒明天皇)、母は宝皇女(斉明・皇極天皇)。中大兄皇子(天智天皇)・間人皇女(孝徳天皇皇后)の同母弟。ただし出生を疑う説もある。正妻は初め大田皇女であったらしいが、その死後、菟野皇女(持統天皇)に代わったものと思われる。大田皇女との間には大津皇子と大伯皇女があり、菟野皇女との間には草壁皇子をもうけた。子には他に、高市皇子(母は尼子娘)、十市皇女(母は額田姫王)、長皇子・弓削皇子(母は大江皇女)、舎人皇子(母は新田部皇女)・新田部皇子(母は五百重娘)、穂積皇子・紀皇女・田形皇女(母は蘇我赤兄の娘)、忍壁皇子・礒城皇子・泊瀬部皇女・多紀皇女(母は宍人大麿の娘)、但馬皇女(母は氷上娘)などがいる。漢風諡号は天武天皇、和風諡号は天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇。万葉集には明日香清御原宮(御宇)天皇とある。
なお諱の「大海人」は、凡海(おおしあま)氏の養育を受けたことに拠る命名と思われる。凡海氏は海部(あまべ)を統率した伴造氏族で、『新撰姓氏録』には右京・摂津国居住の凡海連が見えるが、ほかにも周防・長門・尾張など各地に居住したことが史料から窺える。参考:天武天皇と舞鶴を結ぶ須岐田の謎
- 略伝 孝徳天皇代653(白雉4)年、皇太子中大兄が難波より倭京に遷ることを奏して許されず、皇祖母尊(前天皇皇極)・間人皇后らと飛鳥河辺行宮に移ったとき、これに同行する。この時の日本書紀の記事には「皇弟」とある。654(白雉5)年10月、天皇の不豫に際し、皇太子と共に難波に赴く。この年か翌年、長男高市が生れる。662(天智1)年、菟野皇女に次男草壁が生れる。664(天智3)年2月、天皇の命により冠位階名の改変などを宣伝する。この時以後、「大皇弟」とある。667(天智6)年、中大兄は近江大津宮に遷都。668(天智7)年1月、中大兄が即位。同月、即位を祝う宴で、大海人は長槍で敷板を刺し貫く。天皇は激高するが、中臣鎌足のとりなしで事なきを得たという(藤氏家伝。大海人の怒りの原因は不明。愛人の額田王を天智に召し上げられたことに怒ったとの見方は俗説にすぎまい)。同年5月5日、蒲生野の狩猟に従駕。額田王の歌01/0020、皇太子(大海人皇子)の答歌0021はこの時か。669(天智8)年10月、内大臣鎌足の病に際し、その邸に派遣されて大織冠・大臣位・藤原姓を授ける。この時「東宮大皇弟」とあり、皇位継承者であったことを明示している。
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吉野川 奈良県吉野郡吉野町宮滝 |
671(天智10)年1月、天皇は大友皇子を太政大臣に任命。大海人は東宮大皇弟として冠位法度の事を奏宣(書紀注に或本は大友皇子の宣命とする)。同年10月7日、病に臥していた天皇は東宮を臥内に召し入れ、「後事を以て汝に属(つ)く」云々と伝えるが、大海人は病と称して固辞し、「洪業を奉じて大后に付属せむ。大友王をして諸政を奏宣せしめむ。臣は天皇の奉為に出家修道せむことを」請願し、天皇はこれを許した。(天武即位前紀によれば、東宮に派遣された蘇我臣安麻呂が大海人に注意を促し、これにより大海人は天皇に謀略があることを疑ったという。)大海人は直ちに内裏仏殿に向かい、剃髮して沙門となった。同月19日、吉野での修行仏道を天皇に請い、許される。翌日吉野に入る。同年12月、天皇崩御。
翌年5月、舎人の朴井連雄君は近江朝廷が美濃・尾張で兵を集めているとの情報を齋す。同じ頃、近江京と倭京の間に監視が置かれているなどの報も入り、大海人は身の危険を悟る。翌6月22日、村国連男依らを美濃国安八磨郡に派遣し、兵を起して不破の道を塞ぐことを命じる。24日、東国へ逃れる(壬申の乱。実際には大海人の計画的な決起であったとする説も多い)。この時同行したのは菟野皇女・草壁・忍壁以下、二十数名の舎人、十数名の女嬬のみであった。同日菟田の吾城に至り、大伴連馬来田・黄文造大伴らが吉野より追いつく。また「猟者の首」大伴榎本連大国・美濃王らも従駕。夜半、隠(名張)郡に至り、駅家を焼いて人夫を募るが、反応無し。さらに伊賀郡に急行し、中山(三重県上野市付近?)に至って郡司らが数百の兵を率いて来帰。積殖(阿拝郡柘植郷)の山口に至ると、近江から駆けつけた高市皇子に遭遇。伊勢の鈴鹿で山道を遮る。26日、朝明郡迹太川(朝明川)の辺で天照大神を望拝。この時大津皇子の参来を知り、大海人は大いに喜ぶ。朝明郡家に至る直前、村国男依が駆けつけ、不破道を塞ぐことに成功したと報告。大海人は高市皇子を不破に派遣、さらに東海道諸国・東山道諸国に兵を起す。
大海人の東国入りを知った近江朝廷は、東国・倭京・筑紫・吉備などに兵を起そうとするが、筑紫大宰栗隈王は挙兵を拒絶。この頃、大伴吹負は倭京に留まり、吉野側への帰順を決意、僅かに数十人の同志を得る。
27日、高市皇子の要請により大海人は不破に入る。郡家に至った頃、尾張国守小子部連{金偏に且}鉤(さひち)が2万の兵を率いて帰順。大海人は野上で高市皇子に逢い、軍事を一任。また吹負を倭(やまと)の将軍に任命し、奈良に軍を派遣。
7月2日、紀臣阿閉麻呂ら、数万の兵を率いて伊勢大山より倭に向かう。また村国男依らは数万の兵を率いて不破より近江に入る。近江側は不破を撃つため犬上川の辺に軍を敷いたが、内紛などのため進軍できず。近江の将軍羽田公矢国らは吉野に来帰し、越の国に向かう。
7月4日、吹負は近江の将大野君果安と奈良山で合戦するが、敗走。7日、村国男依らは息長の横河で近江軍を破る。同日、東道将軍紀阿閉麻呂、置始連菟率いる千余の兵を倭京に派遣。
男依率いる軍は連戦連勝、22日、瀬田に至り、大友皇子らの率いる近江の大軍と対峙。大分君稚臣らの功により大勝。大友皇子らはあやうく逃れる。男依は粟津岡に軍を置く。23日、大友皇子は山前に隠れ、自縊。左右大臣群臣、みな散亡。
一方、敗走した吹負は再び兵を集め、當麻の衢で壱伎史韓国の軍と衝突。勇士来目らの功により近江軍を大破し、22日、倭京を平定。26日、諸将は不破宮に参向。
8月25日、近江群臣の重罪者を処刑。9月、飛鳥岡本宮に移る。
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川原寺跡 奈良県高市郡明日香村 |
673(天武2)年2月、飛鳥浄御原に即位(天武天皇)。正妃(菟野皇女)を立てて皇后とする。同年3月、川原寺に一切経の書写を始めさせる(国史に残る最初の写経事業)。4月14日、大来皇女を泊瀬斎宮に置く。閏6月、耽羅・新羅より即位を祝う遣使が来日。8月、高麗使来日、朝貢。12月5日、大嘗祭に奉仕した中臣・忌部氏らに賜物(即位後の大嘗祭に関する確実な記事として最初のもの)。
675(天武4)年1月5日、初めて占星台を建てる。2月9日、諸国に歌の上手・小人・伎人を奉ることを命ずる。4月18日、麻續王を因幡国に配流。
678(天武7)年4月7日、倉梯の斎宮への行幸に出発。この時、十市皇女(天武第一子か。故大友皇子の妃)が宮中で急死し、行幸は中止される。
679(天武8)年5月5日、吉野行幸。この時、天武天皇の吉野宮に幸せる時の御製歌(01/0027)。一説に、天皇の御製歌「み吉野の耳我の…」(01/0025・或本歌0026)もこの時披露されたかという。翌6日、草壁・大津・高市・河嶋・忍壁・芝基を集め、「相扶けて逆ふること無」きことを盟約させる。同年10月、勅で僧尼の民間活動を禁ずる。11月、竜田山・大阪山に関所を設け、難波に羅城(城壁)を築く。
680(天武9)年5月1日、綿布などを京内の24寺に施入。この日、初めて金光明経を宮中・諸寺で説かせる。11月12日、皇后、不豫。治癒を願って薬師寺の建立を始める。11月26日、天皇、不豫。僧百人を得度するとしばらくの後平癒。
681(天武10)年2月25日、律令を改め、法式改定を命ず(飛鳥浄御原令)。同日、草壁皇子、立太子(20歳)。一切の政務に与からせる。3月、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・美努王(栗隈王の子)・中臣連大嶋らに「帝紀及上古諸事」記定を命ず(『日本書紀』編述の出発点か)。7月4日、遣新羅使・遣高麗使。
682(天武11)年9月2日、跪礼・匍匐礼を禁じ、難波朝廷(孝徳)の時の立礼を用いる。12月3日、諸氏の氏上を申告制とする。
683(天武12)年2月1日、大津皇子に初めて朝政を執らせる。3月2日、僧正・僧都・律師を任命。僧尼を国家の統制のもとにおく僧綱制度を整える。
684(天武13)年閏4月5日、政治における軍事の重要性を説き、文武官に武器の用法と乗馬の練習を課す。また衣服の規定を設ける。10月1日、八色の姓制定。
685(天武14)年1月、冠位四十八階を制定。3月27日、「国々で家毎に仏舎を作り仏像と経典を置いて礼拝せよ」との詔を出す。7月26日、朝服の色を定める。9月24日、不豫。11月24日、天皇のため招魂(魂振り。魂が体から遊離しないよう鎮める)を行う。
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天武・持統天皇陵 |
686(天武15)年5月17日、重態。川原寺で薬師経を説かせ、宮中で安居させる。6月10日、天皇の病を占い、草薙の剣に祟りがあると出る。熱田社に送り安置する。7月15日、政を皇后・皇太子に託す。7月20日、朱鳥に改元。宮を飛鳥浄御原と名付ける。9月9日、崩ず。以後皇后が政務をとる(持統天皇)。檜隈大内陵(奈良県高市郡明日香村)に葬られる。『皇胤紹運録』は享年65とするが、中大兄より年長となり信じ難い。56歳の誤りと見る説もある。万葉集には上記3首(01/0021・0025・0027)のほか、藤原夫人(不比等の異母妹五百重娘。氷上大刀自ともいう)に賜う歌(02/0103)がある。また皇后(持統天皇)作の挽歌がある(02/0159〜0161)。
天武即位前紀によれば、大海人皇子は生まれつき勝れた容姿をもち、長じて雄々しく武徳を備え、天文・遁甲(占術)を能くした。菟野皇女を正妃とし、天智元年(天智が即位した年、すなわち天智称制7年を指すか)に東宮となった、とある。
天皇を中心とした集権国家体制の確立に努め、律令官人制や公地公民制の整備を推進する一方、仏教の振興や国史編纂にも意を注ぐなど、その業績は多方面にわたった。
関連サイト:天武天皇の歌(やまとうた)
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