高円山〜天平宝字二年〜


高円山1
高円山 白毫寺付近より

もちろん家持は越中から帰京した以後も「歌日記」の記録を続けているのですが、次第に内面(という「近代風」の言い方しか思いつかないのですが)への沈潜と、現実の政治的動向を巡っての述志とが並列して現れるようになり、いわば内向・外向せめぎ合うかの如き観を呈してきます。越中時代のみずみずしい抒情・叙景はようやく影を潜め、苦悩の色は濃く、ある種の息苦しさが強まる印象を拭えません。

しかしその一方で、万葉を事実上締めくくることになる巻二十は、あたかも通奏低音のように元正・聖武両天皇への讃仰・追憶、そして天平の栄華に対する賛美の念に貫かれていることも見逃せません。このように大きな精神の振幅を示しつつ、万葉集はやがて一首の美しい寿歌(ほきうた)によって閉じられることになります。

橘奈良麻呂の乱の翌年、天平宝字2年2月初旬、式部大輔中臣清麻呂の宅に市原王大原今城・甘南備伊香(かんなびのいかご)・三形王(みかたのおおきみ)・家持らが集まって宴が催されました。当時の家持の歌友が勢揃いした形です。宴の主人清麻呂を言祝ぐ歌が次々に披露されました。

はしきよし今日のあろじは磯松の常にいまさね今も見るごと(巻二十 4498 家持)

(訳)ご立派な今日のご主人様は、この磯の松のように、いつまでも変わらずにいらしてください、今のご様子のままで。

中臣清麻呂は当時五十七歳、まだ正五位下の地位に過ぎませんが、「朝儀国典、諳練する所多し」(続紀薨伝)、すなわち官人たちにとっては「歩く辞書」みたいな人であったらしく、次第に政界の重鎮として頭角を現し、光仁朝において右大臣まで登りつめることになります。その清廉な人格と共に、諸官人の尊敬と信頼を集めていたことが窺えます。

一同は酒を酌み交わし、歌を詠み交わし、宴はたいへん盛り上がったようです。

君が家の池の白波磯に寄せしばしば見とも飽かむ君かも(巻二十 4503 家持)

この歌など、家持らしくもなく「君」が重複して措辞に乱れがあり、酔いのため呂律が回らなくなったか(土屋文明『萬葉集私注』)との痛罵も無理はありません。しかし、宴歌とは何よりその場の雰囲気を大切にすべきものであり、歌の出来栄えは二の次に過ぎませんでした。細かいことは気にしない、酒宴のおおらかな雰囲気をそのまま伝えている点で、私にはむしろ面白く感じられます。

やがて趣向は一転し、高円(たかまと)の宮を追想する競作がなされます。家持は天平勝宝5年8月にも中臣清麻呂・大伴池主を伴って高円の野に登り、歌を詠んでいます(巻二十 4295〜4297)。高円は平城京の東南郊、春日野の南に続く丘陵地帯を言います。東大寺や春日大社、新薬師寺などが次々に建造された春日野に代わり、この頃には大宮人たちの代表的な遊覧地になっていたようです。そこには亡き聖武天皇が晩年好まれた離宮がありました。

高円山2
高円山 白毫寺裏山より
興に依りて各、高円の離宮処を思ひて作る歌五首
高円の野のうへの宮は荒れにけり立たしし君の御代とほそけば(家持)
高円の峯(を)のうへの宮は荒れぬとも立たしし君の御名(みな)忘れめや(大原今城)
高円の野辺這ふ葛(くず)の末つひに千代に忘れむ我が大君かも(中臣清麻呂)
這ふ葛の絶えず偲はむ大君の見(め)しし野辺には標(しめ)結ふべしも(家持)
大君のつぎて見(め)すらし高円の野辺見るごとに音のみし泣かゆ(甘南備伊香)

いずれの歌も、幽宮(かくりのみや)に君臨し続ける聖武天皇を追慕し、過去となりつつあるその聖代を讃えています。

それにしても、最初の家持の歌「高円の野の上の宮は荒れにけり立たしし君の御代遠そけば」などは、読みようによっては現政権に対する批判を込めていると取れなくもありません。気のおけない友との宴で、思わず家持の本音が洩れたのでしょうか。

この集まりは、万葉の末尾を飾る最後の華やかな宴となりました。

ところで、上の宴から一旬ほどを経た2月20日、孝謙天皇は民間の宴会を取り締まる詔を出されています。「同悪の者が集まってみだりに聖王の政治をそしり、酔いしれて節度を失う」ことを非難されたものでした。あるいは、清麻呂宅の宴の噂をどこからかお耳に挟んだ天皇が、ご不快の念を持たれたのでしょうか。これにより祭祀・治療以外の飲酒は一切禁じられ、私的な会合も官による許可が必要とされるようになりました。酒宴を歌作の場として何より楽しんだと思われる家持にとっては、むごい詔であったに違いありません。

この年6月に家持は因幡守に左遷されていますが、その原因の一つもここら辺にあったのではないか、とも思われるのですが。

高円山4
春、高円山にて

壮年期にもどる 因幡へゆく

奈良にもどる 「アルバム」冒頭にもどる