五百枝王
いおえのおおきみ
- 生没年 760(天平宝字4)〜829(天長6)
- 系譜など 市原王と能登内親王の子。同母姉に五百井女王がいる。光仁天皇の外孫。桓武天皇・早良親王の甥にあたる。
- 略伝 781(天応1)年2.17、母能登内親王が薨じた時、姉五百井女王と共に二世王として優遇する旨、光仁天皇の詔にある。同年8.27、五百井女王と共に無位より従四位下に叙せられる。桓武天皇即位の後、同年10.4、侍従に任ぜられる。翌天応2年、侍従に美作守を兼ねる。同年6.20、越前守に遷る。6.21、さらに右兵衛督を兼ねる。783(延暦2)年9月、藤原種継暗殺事件に連座して伊予国へ流罪に処せられる。805(延暦24)年3月、免罪されて帰京。翌延暦25年3.15、病床の桓武天皇に召され、翌日従四位上に復位される。天皇崩後の5月、皇太子安殿親王に春原朝臣の賜姓を願い出、勅許される。807(大同2)年、武蔵守・讃岐守。811(弘仁2)年、宮内卿。以後、上野守・下野守・相模守を兼ね、衛門督・治部卿・刑部卿・右京大夫・民部卿・中務卿などの要職を歴任し、828(天長5)年、正三位。829(天長6)年12.19、薨ず。70歳、参議中務卿美濃守正三位。万葉集の編纂・成立に深く関与したとの説がある(安田喜代門・大浜厳比古・梅原猛)。
系図へ