大伴家持頌

横井千秋 鹿持雅澄 小林秀雄 折口信夫 三島由紀夫 山本健吉 保田與重郎 松岡正剛 白川静 桶谷秀昭
原文で傍点を付された文字は、太字を以てこれに代えました。

   大伴家持卿の御霊祭して万葉集をよめる歌
 敷島の 倭島根に 古言の 宝の文と つたへこし 此文はもよ
 大伴の やかもちのきみ 家にして 集めおかしし 石上 その古言ぞ
 言霊の 幸はふ国と 言霊の 助くる国と いひつげる その古言も
 此文に うたひてぞある 言霊の 幸はふ国の 御たからと
 あつめたまへる 此文ぞよき

――本居大平編『八十浦之玉』より横井千秋作 文政十二〜天保七年刊

さて此集廿卷末に、天平寶字三年春正月一日、因幡國廳にて、國郡司等を饗賜へる宴時に、家持卿の作る歌を載て、卷を終られたり、かくてその年より、延暦三年(引用者注 正しくは延暦四年)八月彼卿の薨られたるまで、凡廿六年の久しき間には、彼卿の(ヨマ)れし歌も、なほ多くありけむを、此集に續て編集(アツメ)し人もなかりしに依て、失て世に傳はらずなりにけむは、まことにうらめしく、をしむべき事にぞ有ける、これを思ひても、いよいよ此集の、又なく貴くめでたく、彼主の勞功(イタヅキ)の、いみじきほどをも思ふべし、もし此集世に(ナカ)りせば、何によりてか、上古の手ぶりをばうかがふべき、かにもかくにも、仰ぎ慕ふべきは、彼主の神霊(ミタマ)になむ

――鹿持雅澄『萬葉集古義』明治十二年刊

「見る人の、語りつぎてて、聞く人の鑑にせむを、(あたら)しき、清きその名ぞ」と家持は歌つた。何といふ違ひでせうか(引用者注 「歴史を見ず、歴史の見方を見て、歴史を見てゐると信じてゐる」、「頽廢した主観的な態度」との違いを言っている)。萬葉の詩人は、自然の懷に抱かれてゐた樣に歴史の懷にもしつかりと抱かれてゐた。惜しと想へば全歴史は己れの掌中にあるのです。分析や類推によつて、過去の影を編み、未來の幻を描く樣な空想を知らなかつたのです。

――小林秀雄「歴史と文學」昭和十六年初出

  春の苑 紅匂ふ桃の花 下照る道に、出で立つ処女
(中略)一種の感歎するやうな気持ちで、家持のかういふ歌を作つた動機が考へたくなる。昔のものには、かう言ふ種類の歌が全くないのだから、さう言ふものをとりあげようとしたこと、及びさう言ふ動機を持つた家持の新しい感覚が考へずにゐられないのである。昔の人は、何の為に家持がこんな何でもない歌を作つたのだらうと、不思議に思つたに違ひない。でも此は所謂「ただごと歌」ではない。前人の考へなかつた領域に物を掴んだのである。だが昔の人は、家持の才能が乏しくて、こんなものを作る外はなかつたと思うたであらう。家持の歌のへただと言はれる理由は、こんな所にもあつたのだらう。併し作つて見ても為方がないと思はれてゐる題材を歌に作つたと言ふことは、価値のない歌を作つた事と同じではない。時には、それまでの人々の、見出すことの出来なかつた価値を見出して、優れた作物を作つてゐる場合もある。今の我々にすら、価値の存在の姿の説明はむづかしいが、ともかく家持の見出してゐるものは確かに認められるといふこんな歌を作つたのは、家持に何所か、先輩とも同時代人とも、更に亦後世人とも違つた所があつたからだといふ外はない。家持は、親、旅人以来支那の書物に親しんでゐることは、ほぼ証明することが出来るから、親の影響も、自身進んで摂取した所もあつて、其が内的に深く印象したものが、こんな形をとつて現れたものと見る外はない。まことに珍しい事なのだ。だが、正に現実にあることで、嘘でも、幻想でもない。作品としてこのやうに残つてゐるのである。

――折口信夫「評価の反省」昭和二十六年初出

 家持のこの歌(引用者注 巻20の「防人の情と為りて思を陳べて作る歌」を指す)を手前に置いて、彼方に防人の歌を置くと、濾過された文學的言語といふものが、切實な感情をいかに模し、それをいかに別なものに變へるかといふ典型的な實例が透かし見られる。實はここに、のちの古今集の發想の源があり、歌からは「切實な感情」の粗野が避けられて、むしろ歌は、切實な感情を表現するには自ら切實な感情を味はつてはならない、といふ古典主義のテーゼへ導かれてゆくのである。
 家持の長歌は、本當の防人の歌に比べて、はるかに整然とし、はるかに「詩的」である。それは(なま)な感情を精錬し、いはば製鐵工場のやうな機能を果たしてゐる。詩の世界において、原料を輸入し、精製して第二次製品とする新しい機構が發明されたのだ。

――三島由紀夫「日本文學小史」昭和四十四年初出

 これ(引用者注 巻19巻末の歌「うらうらに..」を指す)は家持の絶唱である。このような歌の境地は、家持以前にも、家持以後にもなかった。彼一人で、ぽつりと絶えてしまった。西行や心敬や芭蕉のような世捨人たちが、この境地を観念的に知っていたようだ。近代の詩人たちは、家持のこの境地に深い共感を覚えるが、近代人の意識が先に立って、これほど純粋にこの世界を持続しえない。(中略)人間存在の根本の情緒は、かなしいとしか言いようのないことに、彼は思い到っていた。

――山本健吉『大伴家持』昭和四十六年刊

萬葉集の成立にあたつた家持卿の文学観、文学史観、そしてこの人にあらはれた本朝文人の悲願の志は、悠久な日本そのものの初心である。一個の歌の作者としてといふ意味だけでなく、日本の文人の志を最高に激しい形につくつたといふ点で家持卿は偉大だつた。家持卿は萬葉集の終尾の天平宝字三年正月以後、悲劇的といふべき運命に没入される。日本の精神史の上で、その功績甚大なる第一人者にして、最も高貴な志は、不運な迫害の中へ没落を強ひられるのである。家持卿がわが日本の文学史に光を放たれるのは、天平中期からの十数年である。およそ壮年期に入る前に、すでに文学史よりその姿を消される。何時の時代にも斬新な、詩人の感慨と詠嘆をしるし、抒情の秘密まで記録されたこの文人の生涯を、英雄の生涯として、かつて私はわが生成の信条としてしるしたのである(引用者注 『萬葉集の精神』を指す)。その作歌の優雅さを柔和文弱と見た明治文明開化以降の新派歌人は、詩人と英雄の心術を理解し能はない者と評するより別にいふところがない。そしてまた、国の歴史も文学も、おのれの生成の信条として、生命の永劫の実相を貫道するものでなければ、無意味なる死したる知識に過ぎない。

――保田與重郎『わが萬葉集』昭和五十七年刊

 家持は誰もが知るとおりの『万葉集』の編者ですが、それだけにはとどまらないたいへんな人物でした。だいたい『万葉集』をエディティングすること自体、それがのちに日本人の魂や心の原型になるくらいですから、その魂胆には大きな意図がありました。
 大伴の「伴」というのは組織という意味です。しかもそれは共生的な組織体系をさします。大伴氏は当時のほとんどのテクノクラートを握っていたわけですが(一時は軍事を掌握します)、蘇我氏や藤原氏が中央政権を握るようになってからは、だんだん中央から排除されていく。平安時代初期の応天門の変の事件は大伴一族の伴善男が藤原氏の陰謀により失脚させられた事件で、これで大伴氏は藤原氏から完全に水をあけられてしまう。そういう不運な大伴氏の歴史のなかで、家持は奈良末から平安にかけて、最後の大伴の伝統を保ちつつ新しい未来をひらこうとしていたリーダーだったわけです。日本の文化史は、この大伴的な万葉世界が藤原的な古今世界によって覆われていくことによって古代をおえるのです。

――松岡正剛『花鳥風月の科学』(平成六年刊)

 「うらうらに」について、『秀歌』下(引用者注 斎藤茂吉の『万葉秀歌』下巻を指す)に、「独居沈思の態度は既に支那の詩のおもかげでもあり、仏教的静観の趣でもある」とあるが、雲の中に姿を没して、身を(ふる)はせて啼くものは、彼自身の姿ではないか。それは狂おしいほどの、自己投棄の歌ではないか。これほど没入的に、自己表象をなしとげた歌は、中国にも容易に見当たらないように思う。

――白川静『後期万葉論』平成七年刊

 しかし私どもは万葉集から何かいひやうのない感動を受け、無防備で何の成心もない内側に、いのちの自覚といふものを感じた。記憶を辿れば昭和十八年、ガダルカナル島とソロモン諸島海域の死闘の報道を、日々耳にしながら旧制中学の受験準備をしてゐた。そして、神のごとしといはれた人麿は、何か人間離れした遠い存在のやうに感じられ、家持は今日に生きる人間の悲しみから匂ひ立つ心の持ち主のやうに思はれた。それらの詩人の背景的予備知識からでなしに、日本語のみがつたへる声調から感じた。

――桶谷秀昭「二つの万葉論」『浪曼的滑走』(平成九年刊)所収



表紙作品 伝記 秀歌撰 文献 リンク集 歌日記を読む更新情報