大中臣頼基 おおなかとみのよりもと 生年未詳〜天徳二(958)

生年は仁和二年(886)ともいう(和歌文学事典)。正六位上備後掾輔道の子。子の能宣、孫の輔親も著名歌人。いわゆる大中臣家重代歌人の鼻祖。
神祇小祐・権大祐・権小副を経て、天慶二年(939)神祇大副となり、伊勢神宮第二十五代祭主となる。天暦五年(951)、従四位下。
歌人としては、おもに宇多上皇のもとで活躍。延喜七年(907)九月、大井川行幸に供奉し、貫之・躬恒・是則らと共に選ばれて詠進した。延喜十三年(913)の亭子院歌合にも出詠。拾遺集初出、勅撰入集十二首。家集『頼基集』がある。三十六歌仙の一人。

亭子院歌合の歌

しののめにおきて見つれば桜花まだ夜をこめて散りにけるかな(続後拾遺106)

【通釈】空が白み始める頃に起きて見たところ、桜の花は夜を徹して、なおも散り続けているのだなあ。

【補記】「しののめ」は東雲とも書き、東の空がうっすらと白む頃。そんな早い時刻に起き出したのは、言うまでもなく桜の成行きが気になって仕方なかったからである。延喜十三年(913)三月十三日、宇多法皇が亭子院にて開催した歌合に出された歌で、躬恒「うつつにはさらにもいはじ桜花ゆめにもちるとみえばうからむ」と対戦して持(引き分け)となった。好一番であろう。

扇をよめる

うちもとも見えぬ扇の程なきに涼しき風をいかでこめけむ(新後拾遺703)

【通釈】内も外も見分けがつかない扇であって、厚みがないのに、涼しい風をどうやってこの中に籠めたのだろうか。

【補記】家集には詞書「ひとのあふぎにかかむとていへるに」とあり、人から扇に書く歌を所望されて作ったらしい。『万代集』『題林愚抄』などにも所載。

【主な派生歌】
打ちはらふ扇の風の程なきに思ひこめたる荻の音かな(藤原家隆)
手にならす夏の扇とおもへどもただ秋風のすみかなりけり(藤原良経)

おなじ賀に、竹のつゑつくりて侍りけるに

ひとふしに千世をこめたる杖なればつくともつきじ君がよはひは(拾遺276)

【通釈】一節ごとに千年の長寿を籠めた杖ですから、いくら突いても皇太后の御寿命は尽きますまい。

【補記】詞書に「おなじ賀」とあるのは、拾遺集の一つ前の歌の詞書を受けたもので、承平四年(934)三月二十六日、醍醐天皇の中宮であった皇太后藤原穏子の五十賀(五十歳を迎えた祝い)を指す。竹杖に事寄せて穏子の長寿を言祝(ことほ)いだ歌である。「千世」の「よ」に竹の「節(よ)」を掛け、「つく」には「突く」「尽く」の両義を掛けて、極めて巧みな賀歌となっており、祝賀の場をさぞかし盛り上げたことであろう。藤原公任が頼基を三十六歌仙に選んだのは、この歌あってのことだったに違いない。

【他出】拾遺抄、三十六人撰、古今和歌六帖、頼基集、俊成三十六人歌合

【主な派生歌】
名にたてる吉田の里の杖なればつくともつきじ君がよろづ世(平兼盛[拾遺])

女のもとにはじめて文(ふみ)やるに

初霧の空にたちつる心かな思はれむとも知らぬ我が身を(頼基集)

【通釈】その年初めての秋霧が空に立ちのぼるように、頼りない様子で空へと浮き上がってしまった我が心ですよ。いつ晴れるものやら――あなたが思ってくれるかどうか、分かりはしない我が身であるのに。

【補記】「思はれ」に霧の縁語「はれ」を掛けて、いつ恋の鬱情が晴れることかと、巧みに女の同情を引いている。「初霧」は珍しい語だが、延喜五年(905)の平定文歌合に「しぐれにも雨にもあらぬ初霧のたつにも空はさしくもりけり」の歌が見える(夫木抄によれば作者は忠岑)。結局歌語としては定着しなかったようである。


最終更新日:平成18年02月25日