北条氏康 ほうじょううじやす 永正十二〜元亀二(1515-1571)

相摸小田原城主。氏綱の嫡男。母は伊豆の地侍朝倉氏の娘。氏政氏照の父。
天文十年(1541)、父が没し、家督を継ぐ。同十四年、今川義元と合戦するが、武田信玄の仲介により和睦。同十二年、上杉憲政を上野国平井城に攻め、上杉氏の所領を併合する。同二十三年、駿河国善徳寺で武田信玄・今川義元と会し、同盟を締結、関東での地位を確立した。同年、下総の古河城を攻略し、足利晴氏を放逐。弘治二年(1556)、相模に進攻した安房の里見義弘を城ヶ島に迎え撃つ。永禄二年(1559)、嫡子氏政に家督を譲る。永禄四年(1561)、上杉謙信に小田原を攻められるが、籠城して撤退に追い込んだ。翌年、信玄と組んで太田資正の松山城を陥落させる。同七年、里見義弘を国府台に破る。武田氏の今川氏攻略によって三国同盟が破れたのちは謙信と和睦する。元亀二年(1571)十月、氏政を常陸の佐竹義重に出陣させた後、病没。五十七歳。墓所は箱根の早雲寺。
民政にも手腕を発揮し、和歌など文事にも優れた。

 

雪折の竹の下道ふみわけてすぐなる跡を世々に知らせむ(戦国時代和歌集)

【通釈】雪の重さで折れる竹の下を通る道を踏み分けて、まっすぐ歩んで来た足跡を、後の世の人々に知らせよう。

【補記】「すぐなる跡」とは、誠心を尽した己が人生の行跡を言う。川田順編『戦国時代和歌集』より。同書によれば『武林拾葉』に「竹のした」と題して出ているという。

【本歌】後鳥羽院「新古今集」
奥山のおどろが下もふみわけて道ある代ぞと人に知らせん

 

なかなかに清めぬ庭は塵もなし風にまかする山の下庵(集外三十六歌仙)

【通釈】かえって清掃しない庭は塵もなく浄らかだ。風の吹くに任せた山の麓の庵よ。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日