橘為義 たちばなのためよし 生年未詳〜寛仁一(1017)

近江掾内蔵助通文の子。子の義通、孫の為仲・資成も勅撰集に名を残す歌人。長和四年(1015)、正四位下。最終官は但馬守。藤原道長の家司で、長保三年の東三条院四十賀屏風に詠進し、長保五年(1003)の「左大臣(道長)家歌合」に出詠している。『本朝麗藻』に詩を残し、また能書家でもあったという。後拾遺集初出。勅撰入集四首。

月の(あか)かりける夜、人を待ちかねてつかはしける

君待つと山の端出でて山の端に入るまで月をながめつるかな(金葉三奏本402)

【通釈】あなたを待つというので、月が東の山の稜線を出て、西の山の稜線に入るまで、ずっと眺めていたことよ。

【補記】金葉集三奏本巻七恋。詞花集巻九雑上にも「題不知」として撰入している。

【他出】後十五番歌合、玄々集、別本和漢兼作集、定家八代抄

【主な派生歌】
入るまでに月はながめつ稲妻のひかりの間にも物思ふ身の(*藤原家隆)
山の端に入るまで月をながむとも知らでや人の有明の空(藤原雅経[新後撰])


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成20年04月04日