内蔵縄麻呂 くらのなわまろ(-ただまろ/つなまろ) 生没年未詳

系譜未詳。内蔵氏は東漢(やまとのあや)氏の同族で、坂上氏などと同族。もとは皇室の財物を扱った内蔵の職に携わった氏族。
天平十七年(745)十月の大蔵省の移に少丞で正六位上の署名が見える(古代氏族人名辞典)。のち越中介に遷任され、天平十八年(746)から天平勝宝三年(751)まで、大伴家持が越中守であった期間を通じ、介(次官)の地位にあったことが万葉集から確認できる。天平十九年(747)四月二十六日、大伴池主の館で税帳使大伴家持を餞する宴に参席、歌を詠んだ(17-3996)のをはじめ、たびたび越中国司の宴に参席し、歌を残している。天平勝宝三年(751)正月三日には、内蔵縄麻呂の館で宴が催され、家持・久米広縄・遊行女婦蒲生娘子らが参席し、歌を詠み(19ー4233)、同年八月四日にも、縄麻呂の館で餞宴が催された(19-4250)。天平勝宝五年(753)三月頃、造東大寺司判官(大日本古文書)。

同じ月の九日、諸僚、少目秦伊美吉石竹(はだのいみきいはたけ)の館に(つど)ひて飲宴(うたげ)す。その時主人(あろじ)、百合の花縵(はなかづら)三枚を造りて、豆器(あぶらつき)(かさ)ね置き、賓客に捧げ贈る。(おのもおのも)此の縵を賦して作る歌

ともし火の光に見ゆる早百合花ゆりも逢はむと思ひそめてき(万18-4087)

【通釈】灯火の光に映じた百合の花。その花の名のように、先々もきっとお逢いしましょうとの思いを抱いたことでした。

【補記】上三句は「ゆり」の序詞。「ゆり」は後・将来の意。天平感宝元年(749)五月九日、秦石竹(はだのいわたけ)の館に、越中守大戸家持・同介内蔵縄麻呂らを招いての宴で詠まれた歌。家持の和した歌は「さゆり花ゆりも逢はむと思へこそ今のまさかもうるはしみすれ」。

【他出】夫木和歌抄、雲玉集

十二日、布勢の水海に遊覧して、多祜(たこ)(うら)に船(とど)め、藤の花を望み見て、(おのもおのも)(おもひ)を述べて作る歌

多祜の浦の底さへにほふ藤波を挿頭(かざ)して行かむ見ぬ人のため(万19-4200)

【通釈】多祜の浦の水底にまで美しく映えている藤の花を、髪に挿してゆきましょう、見に来られなかった人たちのために。

【補記】天平勝宝二年(750)四月十二日。この歌は、拾遺集に柿本人麻呂の歌として入集し、また和漢朗詠集にも採り入れられて名高い。なお田子藤波神社には今も藤の老木があり、「田子の白藤」として名所になっている。

【他出】人丸集、古今和歌六帖、拾遺集、三十人撰、和漢朗詠集、和歌童蒙抄、五代集歌枕、古来風躰抄、秀歌大躰、歌枕名寄、夫木和歌抄、井蛙抄
(初句を「たごの浦に」とする本もある。)

【主な派生歌】
濡れつつもしひてぞ折らむ田子の浦の底さへ匂ふ春の藤波(順徳院)
時鳥今も鳴かなむ田子の浦の底さへにほふ花の波路に(三条西実隆)
惜しめども波に折らるる花の色はかざしてゆかむ岸の山吹(三条西公条)


更新日:平成15年12月26日
最終更新日:平成21年04月05日