源兼氏 みなもとのかねうじ 生没年未詳 法名:蓮目

醍醐源氏。右馬頭有長の息子。法印長舜の父。左衛門尉・日向守などを歴任、正四位下に至る。没年は弘安元年(1278)頃かという。
二条家の門弟。続拾遺集撰進に際し寄人となる。貞永元年(1232)七月の光明峰寺摂政(九条道家)家百首、年不明の山階入道左大臣(洞院実雄)家十首歌、弘長三年(1263)の住吉社歌合・玉津島歌合などに出詠。続古今集初出。勅撰入集計五十九首。

前大納言為家家に三首歌よみ侍りける時、梅花混雪といへることをよめる

咲きそむる花はさながらうづもれて雪のみにほふ梅の下風(新千載47)

【通釈】咲き始めた花は一つ残らず雪に埋れてしまって、その雪ばかりが薫る、梅の木陰を吹く風よ。

【補記】藤原為家邸での三首歌会で詠んだという歌。選者不明の『閑月集』に同じ時の作と思える歌があり、法眼慶融・権律師玄覚などが参席していたことが判る。「梅花混雪」という題で趣向はほぼ固定してしまうので、あとは修辞の工夫があるばかりである。

母のみまかりにける秋の暮に、人のとぶらへりける返事に

ゆく秋を命あらばとたのめても人の別れは待つかたもなし(続古今1436)

【通釈】秋の終りまでは命があったならと期待させても、結局のところ死にゆく人との別れは時を待ってくれることもありませんでした。

【補記】晩秋に母が亡くなり、その後弔問の手紙を寄越した相手への返事として書いた歌。


最終更新日:平成14年11月16日