源兼長 みなもとのかねなが 生没年未詳

醍醐源氏。もとの名は重成。父は右馬権頭道成。母は則成女。備前・讃岐国守、右兵衛佐などを歴任し、正五位下に至る。
長久二年(1041)の弘徽殿女御生子歌合・権大納言師房歌合、永承四年(1049)内裏歌合に出詠。同五年の祐子内親王家歌合では、源経衡と空席を争って競詠したとの逸話が残る(袋草紙)。和歌六人党の一人。能因法師などとの交流が知られる。勅撰集入集は後拾遺集の五首のみ。

長久二年、弘徽殿女御歌合し侍りけるに、春駒をよめる

立ちはなれ沢べになるる春駒はおのが影をや友とみるらむ(後拾遺46)

【通釈】群れからぽつんと離れ、沢のほとりに馴染んでいる春の馬は、水に映った自分のすがたを友と見ているのだろうか。

【補記】長久二年(1041)二月十二日、後朱雀天皇の女御藤原生子(1014〜1068)が催した弘徽殿女御歌合、四番「春駒」左勝。相模・伊勢大輔・赤染衛門など当時の著名歌人が参加した歌合で、兼長は「重成」の名で参加している。

【主な派生歌】
淀川や底すむ瀬々に立つ鷺はおのが影をや友と見るらむ(中院通村)

物言ふ女の侍りけるところにまかれりけるに、「昨夜(よべ)亡くなりにき」と言ひ侍りければ

ありしこそ限りなりけれ逢ふことをなど後の世とちぎらざりけむ(後拾遺538)

【通釈】あの日逢ったのが最後だったのだ。今度の逢引は来世でと約束しておくべきだったのに、どうしてしなかったのだろう。

【補記】「物言ふ女」すなわち親密な間柄にあった女の家に行ったところが「昨夜亡くなりました」と言われて詠んだという哀傷歌。

【他出】宝物集、定家八代抄、別本八代集秀逸(家隆撰)


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成22年03月11日