賀美能親王
かみののみこ
- 生没年 786(延暦5)〜842(承和9)
- 系譜など 桓武天皇の第2皇子。母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に安殿親王がいる。子には有智子内親王(賀茂斎院)・業良親王・正子内親王(淳和后)・正良親王(仁明天皇)・基良親王・秀良親王・忠良親王・秀子内親王・俊子内親王・繁子内親王・芳子内親王・仁子内親王・基子内親王・宗子内親王・純子内親王・斉子内親王・源信(正二位左大臣)・源貞姫・源潔姫(藤原良房室)・源弘(正三位大納言)・源常(正二位左大臣)・源全姫・源明・源義姫・源寛・源定(正三位大納言)・源鎮・源生・源澄・源安・源清・源融(従一位左大臣)・源勤・源勝・源啓・淳王・源賢・源継・源更姫・源若姫・源神姫・源声姫・源良姫・源盈姫・源容姫・源端姫・源瑞姫・源吾姫・源蜜姫・源年姫らがいる。諱は神野にも作る。
- 略伝 幼くして聡敏で、不思議な霊気が立ちこめ、天子としての器量があり、長じて経書や史書を博覧したという。799(延暦18)年、元服。803(延暦22)年、三品中務卿。延暦25年5月、弾正尹。同月、安殿親王(平城天皇)の即位に伴い皇太弟に立てられる。
809(大同4)年4月、病を得た平城の譲位を受けて践祚し(嵯峨天皇)、平城第一皇子の高岳親王を皇太子に立てた。ところが同年12月頃から翌年にかけて重い病にかかり、上皇は平城旧京に官人の一部を移して、いわゆる「二所朝廷」という状況となった。810(大同5)年9月、上皇はさらに平城への遷都を企て東国に兵を募ろうとしたが、これを未然に防ぎ、上皇を出家に追いやって、高岳親王を廃し異母弟の大伴親王(母は藤原旅子)を皇太弟に立てた。以後、父桓武の政策を継承すると共に、蔵人所や検非違使を新設するなど、国制の改革に努めた。また文人の積極的登用、内宴を始めとする年中行事創始など、宮廷に新風を送り込んだ。814(弘仁5)年、多くの皇子女を臣籍に下し、源朝臣の氏姓を与えた。翌年、橘嘉智子(奈良麻呂の孫)を皇后に立てた。819(弘仁10)年、『続日本紀』に次ぐ史書の編纂を命じた。
823(弘仁14)年、大伴親王に譲位(淳和天皇)、以後は冷然院に住み、国政への介入は控えつつも、隠然たる勢力を保持した。833(天長10)年、淳和が譲位すると、嵯峨院に遷り、842(承和9)年7月15日、同所にて崩御。57歳。
三筆の一人に数えられる書の達人であり、漢詩人としても名高く、『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』に多くの詩を残している。また『類聚国史』には和歌2首を留め、箏・笛・和琴などにも巧みであったという。最澄・空海との交流も著名。なお『源氏物語』梅枝巻に「嵯峨のみかどの古万葉集を撰び書かせ給へる四巻」とあり、事実とすれば文献に名が残る最古の万葉集抄本にあたる。中臣清麻呂・平城上皇経由、または大原今城・大原清子(嵯峨妃)経由の万葉草稿から書写したものか。
関連サイト:大覚寺 嵯峨御所(Official Homepage・Welcome to Kyoto・Web-Town京都)
系図へ