大伴家持Q&A集

Q4.家持の越中赴任は左遷だったのですか?

A.ちがいます。左遷という意味合いは、まったくありませんでした。

 家持が越中守(えっちゅうのかみ)に任じられたのは、聖武天皇の天平十八年(746)のことです。当時の越中国は、今で言えば富山県全県と石川県能登半島を含んだ、かなり大きな国でした。
 古代の北陸は「天離(あまざか)る鄙(ひな)」と呼ばれ、たしかに都人にとっては遥かな遠い土地という印象が強かったでしょう。しかし、軍事・外交の側面からも、国家経済という側面からも、たいへん政治的に重要な土地でした。
  1. 出羽地方(今の山形県・秋田県)はまだ完全には律令国家に組み込まれていませんでしたから、北陸地方は対蝦夷(えみし)戦略上大きな意味を持っていました。
  2. 古代においては日本海が海外へ向けて開かれた最も大きな窓でした。ところが、新羅(しらぎ)・渤海(ぼっかい)という二つの隣国との国交はかなり悪化していました。
  3. 当時、聖武天皇の東大寺建造が始まっていましたが、その費用に充てるため、越前や越中を中心に広大な墾田(こんでん)を開発する計画がありました。
 このように、軍事・外交・農政と、越中守には期待されるところがきわめて大きかったのです。左遷どころか、むしろ栄誉ある遷任であったと思われます。
(詳しくは、家持アルバムの越中守時代をお読みください。)

A.(家持) 越中か。懐かしい。今となっては良い思い出ばかりだ。わが人生で、あの頃ほど充実していた日々はなかった。
越中図

家持イラスト





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最終更新日:平成13年8月6日