鸕野讃良皇女
うののさららのひめみこ
- 生没年 645(大化1)〜702(大宝2)
- 系譜など 天智天皇の第2皇女。母は蘇我倉山田石川麻呂の女遠智娘(おちのいらつめ)。同母姉に大田皇女(大津皇子の母)がいる。天武天皇との間に草壁皇子をもうける。名は菟野・沙羅羅にも作る。和風諡号は高天原広野姫天皇、漢風諡号は持統天皇。万葉集巻1・2には「藤原宮御宇天皇代」の標題の下に、脚注として高天原広野姫天皇、尊号太上天皇とある。
- 略伝 657(斉明3)年、13歳の時、叔父の大海人皇子に嫁した。661(斉明7)年、斉明天皇の新羅遠征の際、夫と共に九州へ随行する。翌年、筑紫の那の大津で草壁皇子を産む。同年、父中大兄皇子が皇位を継承し(天智天皇)、夫の大海人は皇太子に就いた。667(天智称制6)年までに姉の大田皇女は薨じ、鸕野皇女が大海人の正妻の地位を襲ったと思われる。のち、天智は子の大友皇子を後継者に望むようになり、大海人は671(天智10)年、吉野に隠遁。鸕野皇女も草壁を伴いこれに従った。同年末天智が崩御し、翌年壬申の乱が勃発。大海人は大友側を破り、672(天武1)年、飛鳥浄御原に即位、鸕野皇女は皇后に立てられた。以後、病がちの夫を輔佐して非凡な政治の才をふるい、律令国家建設に尽力した。吉野宮での六皇子の盟約を経て、680(天武9)年、子の草壁皇子の立太子を実現した。
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藤原宮跡 奈良県橿原市高殿町 |
686(朱鳥1)年9月、天武が崩ずると、即位の式をあげないままその地位を継承し、実権を掌握した。直後の10月、甥の大津皇子を謀反の罪で処刑した。689(持統称制3)年、草壁に先立たれ、以後は孫の軽王の成長に望みをかけた。同年6月、『飛鳥浄御原令』を施行し、翌年1月、即位(持統天皇)。694(持統8)年、藤原京に遷都し、日本最初の都城制に基づく都を造営した。696(持統10)年、孫の軽王に譲位して、史上最初の太上天皇となった。藤原不比等を用いて701(大宝1)年『大宝律令』を完成させ、翌年12.22、崩御(58歳)。天武の檜隈大内陵に追葬された。持統称制前紀には「天皇は深沈にして大度あり」とある。
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持統天皇御製碑 「春過ぎて…」 |
万葉には天皇御製歌として01/0028があり、天武崩時の作として、大后御作歌02/0159、太上天皇御製歌02/0160・0161、御歌02/162がある。「天皇賜志斐嫗御歌一首」03/0236も持統作とする説が有力。また「(和銅)三年庚戌春三月、藤原宮より寧樂宮に遷りませる時、長屋原に御輿停めて」云々の御作歌(01/0078)の作者は、題詞からすれば元明天皇になるが、脚注には「一書云、太上天皇御製」とあり、歌の内容からしても飛鳥から藤原に遷都した際の持統天皇作とするのが適当と思われる。
関連サイト:持統天皇の歌(やまとうた)
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