----千葉県篇(2)ー1----

----CHIBA----


■飯岡のドガミシモ
明治中期頃、今戸や芝原人形を真似て、飯岡町でも飯岡人形と呼ぶ稚拙な土人形が作られ始めました。その人形は、荒物雑貨商「甘酒屋」の武多和利男、孝次郎の二代にわたり作られていました。
なかでも、今戸焼の下総雛と同じ型の裃雛を、「ドガミシモ」と呼んで、大中小の3種があり、稚拙な彩色がマニアを喜ばせています。
飯岡人形は、年月は定かではありませんが、戦前に廃絶したと言われています。


本納の絵馬
茂原市本納の、代々、絵師・画家の家系の絵馬師、矢部家で作られ、現在は5代めの矢部宏さんです。注文によっては大型の絵馬も描かれます。

鶏の絵馬は秋の「荒神祭り」(9月4日)に 荒神棚に上げ、火災予防を祈ります。また、鶏は夜は鳴かないことに因み、子供の夜泣き封じともされています。
狐の絵馬は「稲荷祭り」(10月10日)に、屋敷内の稲荷社に奉納して、五穀豊穰、商売繁盛を祈願します。また、狐の背後に朱で宝珠が描かれており、 宝珠が財産とともに子宝を意味するといわれています。
馬の絵馬は一般的な祈りの表現で、人間の願いを神のもとへ運んでくれる使者であり、すべての祈りの気持ちをこめたものです。

東金(とおがね)市の絵馬は、現在二代めの中村輝夫さんが制作されています。先の本納の絵馬のと比べて稚拙な感じですが、それがかえって好感のもてる作品に仕上がっているといえます。

絵は「狼、鳩、鶏、鷹、馬、牛、狐、弁天」などが描かれています。

狼の絵馬は、稲荷に狐がつきもののように、御嶽(みたけ)に犬というところから、農作物を荒す獣除けに、竹につけて田畑に立てられました。
鷹は諸願成就の祈りですが、また病気平癒や安産祈願にも用いられます。
牛は学問の神様の天神とつながるところから、学業祈願とされていますが、また、草を喰うということから、子供のおできのクサ 平癒祈願にも奉納されます。
このように、それぞれの絵に合った素朴な祈りが、どの絵馬にも込められています。



県内には袖凧(トンビともいう)と上総(かずさ)唐人凧の二つの異色の凧があります。 二つの凧は千葉地方を二分して作られています。袖凧は九十九里浜沿いの外総で、上総唐人凧は東京湾側の内総で作られています。

唐人凧
上総の唐人凧は、他ではみられない珍しい形をしています。「高麗人の弁髪に形どった」ものともいわれます。
凧絵は墨一色で、上部に家紋が、下部には寿や滝龍、竹龍など江戸文字風の力強い字体で描かれています。
この凧には家紋が描かれているところから、別名「定紋凧」とも呼ばれます。
大きさは、小型のものでも1メートル近くあり、うなりをつけて揚げるものには、人の背丈を越すような大きなものも作られています。


袖凧(そでたこ)
袖凧は制作されている地名により、長南袖凧(長南とんび)・本納の袖凧・一ノ宮の袖凧とそれぞれを呼んでいます。
発祥地の 長南袖凧の由来は、享和年間(1801〜499)長南町鹿島町の大木忠藏が物干に干された着物にヒントを得て考案し作ったのが始まりと言われています。
また、 一ノ宮の嵯峨野家に伝わる袖凧のいわれには、安永から寛政(1772〜1801)の頃、大漁が続き、120軒あった網元が船方に揃いの「万祝(まいわい)」を作り、それを着て競って上総一ノ宮の玉前神社にお礼参りをした。
その後、大漁のたびに新しく万祝を作ったが、それも大変なので寛政三年に万祝と同型の大凧を揚げることにした。
これが万祝を象った袖凧のはじまりと伝えられています。


「県の無形文化財指定:長南の袖凧制作伝承者・常澄富美夫氏(市原市牛久)


(1997.7.7掲載)


▽‥千葉県編(2)ー2 ▲‥千葉県篇(1)ー1 【民芸館】目次▲
草の根工房【HOME 】▲ ご感想など


kyoto-kusanonekoubou.saikonan....Seiitirou.Honda:hds30@mbox.kyoto-inet.or.jp