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森繁久彌(森繁久弥)プロフィール

1999/10/11作成
1999/10/16更新

ふりがな もりしげ・ひさや
職業 俳優、日本俳優連合理事長、あゆみの箱会長、「水と緑の館」名誉館長
主な作品歴  

主要出演ラジオ番組

  • 「愉快な仲間」(NHK)
  • 「日曜名作座」(NHK)

主要出演舞台作品

  • 「アンナ・クリスティ」(1935年ごろ、中央舞台)
  • 「鐘の鳴る丘」(1948/07、創作座)
  • 「蛇(ながむし)」(1949年、ムーラン・ルージュ)
  • 「太陽を射る者」(1949年、ムーラン・ルージュ)
  • 「モルガンお雪」(1951年、帝劇ミュージカル)
  • 「赤い絨氈」(1953年12月、帝劇ミュージカル)
  • 「暖簾」(1957年4月、東京・芸術座)
  • 「佐渡島他吉の生涯」(1961年5月、東京・明治座)
  • 「南の島に雪が降る」(1962年1月、東京宝塚劇場、森繁劇団)
  • 「屋根の上のヴァイオリン弾き」(1967年9月、帝国劇場〜)

レコード、CD

  • 「知床旅情」(1965年、作詞・歌、レコード)
  • 「わが母校 北野のうた」(CD)
  • 童話「21世紀の孫たちへ〜語り継がれる昔話〜」(1999/05/08、CD、エイベックス)

著書

  • 「こじき袋」(1957年、読売新聞社)
  • 「アッパさん船長」(不明)
  • 「見て来た・こんな・ヨーロッパ」(1961年、雪華社、中公文庫収録)
  • 「にんげん望遠鏡」
  • 「森繁自伝」(1978年、中央公論社)
  • 「さすらいのうた〜私の履歴書〜」(1981年、日本経済新聞社)
  • 「こぼれ松葉〜森繁久彌の五十年〜」(1983年、日本放送出版協会)
  • 「人師は遭い難し」(1984年、新潮社)
  • 「ふと目の前に」(1985年、東京新聞出版局、道草文庫収録)
  • 「あの日あの夜」(1986年、東京新聞出版局)
  • 「わが人生論 大阪編(上)〜青少年へ贈る言葉〜」(1986年、文教図書出版)
  • 「左見右見(とみ・こうみ)」(1987年、扶桑社)
  • 「フォトエッセー  碧い海をもとめて」(1992年、東京新聞出版局、写真・佐々木正和)
  • 「海よ友よ〜メイキッス3号日本一周航海記〜」(1992年、朝日新聞社)
  • 「隙間からスキマ」(1992年、日本放送出版協会)
  • 「夜光虫」(1992年、新潮社)
  • 「青春の地はるか〜五十年目の旧満州への旅〜」(1996年、NHK出版)
  • 「もう一度逢いたい」(1997年、朝日新聞社)

※出版元はすべて初発売時の版元です。

受賞歴
  • ブルーリボン賞男優主演賞(1956年、映画「夫婦善哉」「警察日記」の演技による)
  • 毎日映画コンクール主演男優賞(1956年、映画「夫婦善哉」「警察日記」の演技による)
  • NHK和田賞(1958年)
  • 紺綬褒章(1964年)
  • NHK放送文化賞(1965年)
  • 菊池寛賞(1974年)
  • 紫綬褒章(1975年)
  • 毎日芸術賞(1976年)
  • 紀伊國屋演劇賞特別賞(1976年)
  • 第1回菊田一夫演劇大賞(1976年)
  • 芸術選奨文部大臣賞(1979年)
  • 日本文芸家協会大賞(1982年)
  • 第1回都民文化栄誉章(1983年)
  • 文化功労者(1984年)
  • 早稲田大学芸術功労者表彰(1985年)
  • 第33回交通文化賞(1986年)
  • 勲二等瑞宝章(1987年)
  • 文化勲章(1991年)
  • 日本アカデミー賞協会栄誉賞(1992年)
関連ホームページ
本名 同じ(森繁久彌)
生年月日 1913/05/04
出身地 大阪府 枚方市
所属 森繁事務所、日本ペンクラブ、日本文芸家協会
学歴 堂島小学校卒業
北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)卒業(第45期)
1934年 早稲田第一高等学院卒業
1934年 早稲田大学 商学部入学(1936年中退)
家族構成 妻・森繁萬壽子(森繁万寿子)氏(著述家・故人)、祖父・森泰次郎氏(徳川家・大目付・故人)、父・菅沼達吉氏(学者・故人)、長男・森繁泉(元賀茂カントリークラブ取締役社長、1999/01/23死去)
趣味・特技 釣り

 

 森繁久彌は、1913/05/04大阪府 枚方市生まれ。名家の生まれで祖父の弟は文人・成島柳北だといいます。森繁久彌誕生時、父・菅沼達吉氏はすでに54歳。森繁久彌が2歳のとき死去。
 兵庫県西宮市鳴尾の堂島小学校から大阪府立北野中学(現・北野高等学校)に入学。北野中学時代は腕白でそのため1年留年したといいます。その後、上京し、早稲田第一高等学院を経て、1934年、早稲田大学商学部に入学。

 北野中学時代から芝居好きだった森繁久彌は、大学在学時代も演劇熱が高く、所属した演劇研究部では、後に映画監督として活躍する山本薩夫や谷口千吉が先輩部員にいたものの、彼らが左翼活動で大学を追われたため、早くから部の中心的存在として活躍。アマチュア劇団・中央舞台(のち人間座)に参加して築地小劇場を借り、「アンナ・クリスティ」を上演したといいます。大学2年の1936年、演劇熱が高じて大学を中退。

 兄の紹介で東京宝塚劇場(のちの東宝)に入り、日本劇場の舞台進行係を振り出しに、下積み劇団員として東宝新劇団、東宝劇団、古川緑波一座を渡り歩きます。東宝劇団では馬の脚を演らされるなど苦難の時代でしたが、緑波一座では古川緑波から一目を置かれました。

 1937年、緑波一座を退団して、一念発起してNHKアナウンサー試験を受験し、1939年合格。アナウンサー面接試験では「合格しやすいように」在任地に遠隔地を希望。入社後、即、満州の満州電信電話株式会社の新京放送局勤務となり敗戦まで中国大陸で過ごしました。ここで森繁久彌は多数のラジオ番組の原稿書き、演出を経験したといいます。このころに満州各地をルポした「森繁ルポタージュ」が国定教科書に採用されました。
 1942年、大学時代から交際していた萬寿子夫人と結婚。(一部資料では杏子夫人と記載)
 1945年の敗戦を新京で迎え、一時的にソ連軍に抑留されます。このころ2歳で父親を亡くしていた森繁久彌にとって父親代わりでもあった兄が戦病死。引き揚げの混乱で亡骸に会うことなく帰国。帰国は1946年11月。

 帰国後は、帝国座ショウ、空気座などを転々とし、このころ映画「女優」(1947、衣笠貞之助監督)へ出演し映画初出演。1948年7月には菊田一夫の紹介を得て有楽座での創作座公演「鐘の鳴る丘」(菊田一夫・作)に出演。翌1949年には、再建されたムーラン・ルージュに入り、「蛇(ながむし)」で主役を演じ、続けて「太陽を射る者」(1949年)では歌を唄う場面にも挑戦してその存在が認められ始めました。
 1950年、ムーラン・ルージュを退団し、師事していた古川緑波の紹介でNHKラジオの人気番組「愉快な仲間」に出演しレギュラーに。長い下積みで培った幅広い芸域が重宝されるようになります。

 同じ1950年、映画「腰抜け二刀流」で初主演。1952年には主演映画「三等重役」が喜劇として高い評価を得て喜劇俳優として人気を不動のものにしました。その後、森繁喜劇はペーソス味をもつようになり、1955年、淡島千景と共演した映画「夫婦善哉」が注目を集め、決定的な評価を得ることとなりました。その後、同じ豊田四郎監督による映画「猫と庄造と二人のおんな」や、映画「神坂四郎の犯罪」(1956年)、「南の島に雪が降る」(1961年)、「青べか物語」(1962年)など高い完成度の作品を発表する一方、「喜劇駅前」シリーズや「社長」シリーズなどの喜劇シリーズをヒットさせ、その芸の幅に一段とひろがりをもつに至り不動の人気を獲得しました。その後も「恍惚の人」(1972年)で好演するなど映画への出演を重ね、出演映画は300本を超えるといわれます。

 森繁久彌の活躍は映画での活躍にとどまりません。テレビドラマでも草創期から活躍し、テレビ本放送が始まった1953年には早くも『生と死の一五分間』(NTV)に出演。デパートの屋上から投身自殺をしようとする男の15分間を描いた心理ドラマだが、15分間を描くのに、放送時間は30分というのが実験的でした。
 1958年には、テレビ放送開始によって映画が斜陽産業となることを予言したドラマ『マンモスタワー』(KR)にも出演。
 1964年にはテレビドラマ『ナショナル劇場/七人の孫』(TBS)がヒット。続いて『ナショナルゴールデン劇場/だいこんの花』シリーズ(1970〜、NET)などでテレビドラマでのホームドラマの定型を築きました。『だいこんの花』では息子役の竹脇無我と息のあったところを見せ、本物の父子のようだと評されました。ここで森繁久彌は向田邦子を見出して脚本家として重用するなどドラマ界に多大な影響を残しました。
 このほかのテレビドラマの代表作としては『ナショナル劇場/青年の樹』(1961TBS)、『太陽の丘』(1966NHK)、『ナショナル劇場/S・Hは恋のイニシアル』(1969TBS)、『あんたがたどこさ』(1973TBS)、『さよなら・今日は』(1973NTV)、『ナショナルゴールデン劇場/どてかぼちゃ』(1975NET)、『三男三女婿一匹』(1976TBS)、『ドラマスペシャル/吉田茂』(1983KTV)、『黒い雨』(1983NTV)、『年末時代劇/忠臣蔵』(1985NTV)、『おやじのヒゲ』シリーズ(1986〜TBS)、『初春ドラマスペシャル/小石川の家』(1996TX)などがあります。

 音楽活動の方面では、「知床旅情」を発表。もともと「知床旅情」は映画「地の涯てに生きるもの」の撮影のため1960年3月から7月にかけて北海道、知床・羅臼村を訪れた森繁が村を去るに際して即興で作った歌「サラバ羅臼」がもとになっています。哀愁あふれるこの歌はその後、1962年に「NHK紅白歌合戦」で「知床旅情」と題して森繁自らによって歌われ、1965年にはレコード化されました。さらにその後コンサートツアーで北海道を訪れた加藤登紀子が流氷を見た感動から突然、演目にないこの歌を歌ったといいます。うろ覚えで歌ったため森繁作詞の原盤とは歌詞が若干異なってしまいましたがこれが1970年、「知床旅情」としてレコード化され今日も口ずさまれています。

 舞台活動での活躍も持続。1962年には森繁劇団を結成、1967年からスタートしたミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」は上演900回、総観客動員165万人を記録。森繁久彌の演じたテヴィエ役の存在感は現在も語り継がれています。

 このほか、出演するラジオ番組「日曜名作座」(NHK)は放送2000回を突破するなど実に多彩な活動を現在も旺盛に続けており、日本のエンタテイメント界の巨星の一人です。


参考文献


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