「季刊カステラ・1998年春の号」別冊付録

『彼が目覚める時』1

彼が目覚める時 第一回

 彼が誕生したのは、人類に文明が発祥したのとほぼ同時である。文明の発生以前にも、前兆のようなものはあった。例えば猿人の二つの集団が食物を争うとき、彼とよく似た状態になることがあった。しかし、彼が継続した状態として自律性を獲得したのは文明発祥以後である。ある意味で、彼は文明そのものだったのである。
 余剰食料の蓄積、というのがひとつの転換点であった。それぞれの家族が、自分の世帯を支えるだけの自給自足経済に終始している時には、争うものは女性くらいしかなかった。しかし、農耕技術や牧畜技術が発達して余剰食料が蓄積されるようになると、これをめぐって争いが絶えないようになる。人類の文明はその最初から争いの歴史なのであった。特に牧畜生活者は農耕生活者の、農耕生活者は牧畜生活者の貯えている食料を欲した。お互いに自分の持たないものを求めたのである。
 はじめのうちは、牧畜民が圧倒的に有利であった。牧畜民の機動性に対して、農耕民は土地を捨てて逃げるわけにはいかなかったからである。農耕民たちは自衛のためにいくつもの家族が集まって大集団を作り、その居住地を城壁で囲んだ。集団が大きくなるとなんの秩序もなしには成り立たなくなってくる。彼らを束ねるものとして信仰が生まれ、祭りが催され、神殿が作られた。収穫の一部は神殿に捧げられた。その結果余剰食料は一ヵ所に集中して貯えられた。
 この余剰食料を元に、食料生産から開放されて専門職に従事するものが現れる。例えば農具を専門に作る者、土器を作る者、神殿の神官などである。さらには専門職としての兵士も現れる。ふだんからの遊牧生活に基づく機動性に優れた牧畜民に対して、にわか仕立ての農民兵で対抗するよりも、一名の経験豊かな最高指揮者に率いられた一糸乱れぬ組織としての常備軍を備えた方がはるかに有利である。農耕民にやや遅れて牧畜民もよく似た社会(もう社会と呼んでいいだろう)を作り出した。
 ある時は牧畜民が農耕民を取り込み、ある時は牧畜民が農耕民を取り込みながら、集団同士は争いを繰り返し、合体と分裂を繰り返しながら、全体としてはそれぞれの集団の規模を徐々に大きくしていった。それぞれの集団は、守るために戦っているようにも、奪うために戦っているようにも見えた。もうひとつの見方もあった。戦闘状態を維持するために戦い続けているようにも見えたのである。
 ここに、多くの人と物によって構成される、巨大な自己維持システムとしての彼が誕生した。彼は「社会」とほぼ同義である。彼にはもうひとつの名前があった。それは「戦争」である。

彼が目覚める時 第二回

 外部から物とエネルギーを取り入れ、不要になったものを排泄する開放的な循環システムである、という点において彼はまさしく生命体であった。それだけではない。彼は感情と意志を持っていたのである。
 例えば蜜蜂の巣を見た時、気温が高く食べ物の多い時期には活動が活発で、一匹一匹の蜜蜂には表情といったものは無いにもかかわらず、巣全体としては非常に陽気な印象となる。また気温が低く、ほとんど活動しない時期には、物憂く気だるい印象を受ける。彼にもこのような「感情」があった。
 それは彼の構成要素である人間の感情の総和などではなく、それとは独立した、彼独自のものだった。むしろ人間たちの感情と彼の感情は一致しないことの方が多かった。それはちょうど、癌細胞と人間の関係に似ていた。癌細胞というのは細胞としては非常に活動的であり「威勢のいい」状態であるにもかかわらず、細胞によって構成される人間にとってはありがたくないものである。
 生き物は細胞で構成されている。しかし、単細胞生物を除くと、一つ一つの細胞は、その生き物を維持するという目的をもって活動しているわけではない。細胞は周囲からのの刺激に対して、遺伝子に書き込まれた手順どおりに反応しているだけである。その細胞が集まって、ひとつの独立した意志を持つ生き物を構成する。人間と彼の関係は細胞と生物個体の関係に似ていた。
 人間が蜜蜂の巣を観察するように、仮に異星人が彼方から地球を観測していたら、どんな時に彼が活動的で活き活きした状態にあると思うだろうか。戦争が行われている時、彼は非常に活発であり、陽気であるように見えるのではないだろうか。
 彼は常に戦争を意志した。戦争が行われている時は、彼の力が解放されている時であり、彼はそれを快と感じた。その初期において、彼には神経系に相当する器官がなかったから、意志するといっても「考える」ことはできなかった。しかし、神経系を持たない単細胞生物が刺激に反応して食物の方へ向かうように、彼は常に戦争の方へ向かおうとした。そのため、ほとんどの人間が平和を望んでいる時でも、ちょっとしたきっかけで戦争に突入してしまうことがしばしばあった。
 集団の統合、職業の分業化が進み、彼は非常に複雑な有機的複合体となっていった。国家の原形が生まれつつあったのである。この頃はまだ遠距離間で高速に通信する手段がなかったため、相互にほとんど関係を持たない地域も多かったから、彼は彼というより「彼ら」と呼ぶべきような状態にあった。しかし、ひとつの国家が一人の彼なのではなかった。彼の本質はあくまでも複数の集団が争い合う戦争状態にあった。
 彼は、より効率良くより大規模な戦争を起こすために進化した。原始国家の最高権力者として国王を誕生させた。国王は軍人であったり、神官であったりした。国王を頂点とする支配層は、莫大な余剰食料を握った一大財閥であり、それを活用する一大企業でもあった。
 紀元前三〇〇〇年代に入ると青銅器が登場する。青銅製のより鋭利な武器を獲得するするため、その技術と生産力をめぐってさらなる争いが起こった。青銅の武器を作るには、まず、その原料となる銅や錫の鉱山を獲得しなければならなかった。次にはそこで採掘する者、選鉱する者、鉱石を運んでくる者が必要になった。途中で奪われないためには、これを護衛する者も必要であった。持ち帰った鉱石を精練し、武器に鋳造する技術者も多数必要とした。戦いに勝ち、国威が上がってくれば、王宮や神殿をそれにふさわしいものにしなければならない。ここでもまた多くの技術者が動員される。
 これだけ大勢の人間を使用するためには、彼らに食わせるための食料を生産しなければならない。生産性の高い食料が開発され、効率の良い農業技術も研究された。こうして得られた余剰食料を使って、さらに軍備が拡張されたのである。
 このような進化は、彼が「考えて」産み出した物ではない。前述したように、この頃の彼は考えるための神経系を持っていなかったのである。環境による自然選択が生物の進化を押し進めるための圧力となったように、彼の「戦争への意志」が進化圧となって、人間の試行錯誤に対してある選択を行ったのである。

彼が目覚める時 第三回

 戦争は国家の経営が行き詰まり、その繁栄が頭打ちになった時、これを打開するための非常手段であるにすぎない、とする説もある。しかし原始国家においては事実は逆であった。原始国家は、戦争を継続する力のある限り戦争を続け、戦争を続ける人的物的資源が底をつくと、それを補給するための休止期間に入ったのである。確かに物が豊かになると、人間たちの戦争への動機が弱くなることがあった。そこで彼は、人間の戦争への意欲をかき立てるための新たな戦利品を開発した。
 これまでにない新たな文化が誕生した。「ぜいたく」である。それ以前にも、日用品や家を装飾する習慣はあり、芸術と呼べるだけの洗練されたものもあった。しかし、新たな文化「ぜいたく」は、それらとは質を異にするものであった。国王には国内の富が集中した。貢ぎ物が一手に集まるばかりではなく、王の周囲には専属の職人がかかえられていて、大きな宮殿に住み、衣服調度は豪奢を極め、大勢の美女にかしずかれていた。庶民の家には似つかわしくない、支配層だけに許される美術工芸品が作り出された。金、銀、宝石といった類のものが遠方から続々と運び込まれて加工された。支配層に属するものは、下層部を占めるものであっても、王にならい、それなりのぜいたくを身につけようとした。
 新文化「ぜいたく」の特徴は必要以上の豊かさという点にあった。支配層から離れた、農民や技術者には「必要なだけの豊かさ」に満足し、不自由なく幸福な暮らしをしている者も多かった。また、支配層の中にも、個人としてはぜいたくを好まない者はいた。しかし、支配層全体としては「まるで何者かに操られるように」ぜいたくを志向し、新たなぜいたくを開発し、上のぜいたくを下が見習った。ぜいたくに対する欲求には、際限がなかった。
 新たな戦利品「ぜいたく」の登場により、戦争の動機はより強化された。この頃、メソポタミアにおいては、すでに文字が登場し、都市国家の時代に入っていた。

彼が目覚める時 第四回

 ティグリス河とユーフラテス河は、どちらもトルコのアルメニア地方の山々が水源地である。二つの河は、どちらもペルシア湾に流れ込んでいる。古代ギリシア人は、この両河に挟まれた地域をメソポタミアと呼んだ。メソポタミアは、現在のイラク、シリア、トルコの三国にまたがっている。古代の南メソポタミアは、バビロニアと呼ばれており、さらにその北部をアッカド地方、南部をシュメール地方という。バビロニアの北に広がるのがアッシリア地方である。
 紀元前三〇〇〇年頃、彼はシュメール地方に、いくつかの都市国家を誕生させ、互いに覇を競わせた。この時代は数百年間続く。この間に、この地域では人口を増やし、食料生産技術、軍事技術を発達させ、文字を使用した記録に基づく統治技術も発達させた。この地域に力の充実を感じたかれは、軍事力を集中し、より大きな戦争の実現を試みた。
 都市国家ラガシュとウンマは、グ・エディン(平野の首)と呼ばれる肥沃な土地をめぐって、戦いに明け暮れていた。それにもかかわらず、ウンマの王子ルーガルザゲシは戦争よりも学問や呪術に興味を持って神殿に入り浸り、軍隊には近寄ろうともしなかった。しかし、この心優しい王子が、王位を継いだ途端に人が変わったようになって「まるで何かに取り憑かれたように」戦争に積極的になり、自ら戦場に出て軍隊を指揮した。
 学問の成果なのか、ルーガルザゲシは味方の士気を高めること、敵の弱点を衝くことに巧みで、とうとうラガシュを攻略してしまった。ルーガルザゲシはラガシュに攻め込み、神殿や神々の像を破壊し、金銀財宝を奪った。勝利を収めたルーガルザゲシは次に都市国家ウルクをも征服し、さらに数十にのぼる都市を次々に征服していった。ここに、ひとつの都市を超える領土国家が誕生したのである。
 ルーガルザゲシはシュメールの最高神エンリルより支配権を授かった、と宣言した。そんなことを信じていたわけではない。支配領域がひとつの都市を超え、領土国家、帝国の段階にまで達するとすれば、全土の最高神エンリルの権威を利用しない手はない。ルーガルザゲシには、はっきりと世界帝国の理念の芽生えがあった。そしてそれは、確かに彼自身の若い頃の学問から得られたものであった。それははっきりしているのだが、王位を継いだあの日、突然芽生えた領土拡張への身を焦がすような欲求だけは、自分のものではない、誰かにふき込まれたもののような気がしていた。
 ルーガルザゲシはやがて、北方のセム族の王サルゴンに倒される。セム族の王朝も、グディ人に奪い取られ、それをまたシュメール人が奪いかえした。この王朝は繁栄した。彼は、国が大きくなりすぎたことに気付いた。かといってアフリカに遠征するだけの生産力や技術力はまだなかった。急ぎすぎたらしい。彼は、一度やり直すことにした。
 この肥沃な下流地帯は、絶えず外敵から付け狙われていた。王朝の軍事力もさることながら、その外敵同士が牽制しあっているためもあって、この地域は守られてきたのだが、ある時アムル人の支配者に、エラム人と手を結ぶという名案が「天啓のように」思い浮かび、東方の山地からエラム人が侵入するのに呼応して、西北の砂漠からアムル人が攻撃をしかけた。あまりに中央集権的な官僚主義で無理押ししすぎたため、国が疲弊していたこともあった。この両方からのゆさぶりを支えきれず、紀元前二〇〇〇年頃、シュメール民族最後の王朝は姿を消した。
 それ以後、メソポタミアのこの世界は、小国が分立し、互いに征服したり征服されたりする激しい覇権争いの時代に戻ってしまった。まるで誰かが一度「帝国」の練習をしたようにも見えた。

彼が目覚める時 第五回

 イシン王朝第五代の王リビト・イシュタルは、世界で初めて本格的な法による統治を行った。リビト・イシュタル王は、大形の粘土板に刻まれた三八条の法文に基づいて内政の運営にあたった。彼はこれに興味を持った。それまではは広大な領土の支配に、軍事力と神の威信をもって行った。王の目の届かない地方の支配には地方総督を置き、総督にはある程度独立した権力が与えられていた。しかし、法典をもってすれば、王の意図を国の隅々にまで行き渡らせることができ、より統一のとれた大規模な軍隊を組織できるかもしれない。彼は試してみることにした。
 バビロンのハンムラビ王は、即位七年目に都市国家ウルク、イシンを占領するなど、その治世のはじめのころから覇権の争奪戦に加わってはいた。しかし、ハンムラビ王はそれほど領土拡張に積極的な姿勢を示さなかった。むしろ、即位から三〇年間というものは、自分の支配下にある諸都市の城壁を構築したり補強したり、運河を開設したり整備したりと、内政的な面に力を注いでいた。また、この時期ハンムラビ王は、イシン王朝のリビト・イシュタル法典、ウル第三王朝のウル・ナンム法典、エシュヌンナのビララマン法典などを研究し、独自の法典を作り、それによって国を統治する実験に夢中になっていた。
 しかし、この法典がある程度の完成の形をみせると、ハンムラビ王はもっと広い領土でこの法典の効果を試してみたくなった。こうして、ハンムラビ王は即位三〇年の頃から、ようやく都市国家間の覇権争いに本格的に乗り出すのである。
 攻撃の第一目標は、南方の宿敵、ラルサであった。そのためにハンムラビ王はうるさい存在である北方のアッシリアと友好関係を結んだ。こうして、まず後方の安全を確保しておいて、それからラルサの王リム・シンとの抗争に全力をあげた。三〇年間の内政重視の政策による国力の充実が、バビロンの軍隊を強力なものにしていた。バビロンとラルサ、大国同士の全面戦争に、彼は歓喜した。この頃、もし航空機があって、戦闘を上空から見たならば、喜びに身をうち震わせているひとつの生き物の姿を確かに見いだすことができたはずである。ハンムラビ王はリム・シンをラルサから本拠地であるエラムの山地エムトバルに追い詰めて捕虜とし、バビロンの都に凱旋した。
 ハンムラビ王は、次に北方に目を転じた。即位三三年にはマリを征服。即位三八年には、洪水の大被害を受けて国力が衰えたエシュヌンナにかすかさず出兵してこれを攻め滅ぼした。こうなっては、数年前に友好関係を結んだアッシリアも事実上ハンムラビ王の配下となるより他はなかった。これに続いてハンムラビ王は、アッシリアの西北に続くスバルトゥ王朝も制覇した。こうして、ハンムラビ王は即位三九年には、再びメソポタミアの統一をやってのけた。

彼が目覚める時 第六回

 ハンムラビ法典は世界統一と強力な王権を象徴していた。ウル第三王朝までは、それぞれの都市の最高責任者の判決が最終的な判決であり、これをくつがえすことはできなかった。しかし、ハンムラビ王はすべての終審権を自分自身でにぎっていた。ただし、首都バビロンの法廷で、王の裁判を直接に受けることのできない地方民のためには、王の代理の裁判官が任命され、地方の法廷に出向いて王の名において終審を行なった。そうした裁判のよりどころとなったものが、ハンムラビ法典であった。この法典は、ハンムラビ王が統治するメソポタミア世界の全地域を通じて一貫して行われた、ひとつの法体系だったのである。この法典のなしとげたことは、王権の強化であり、官僚機構の整備であり、中央集権的な統制であった。つまり、ハンムラビ王は典型的な専制王制をここに確立したのであった。
 これ以後彼は、人々を統制し力を貯え軍事力を集中して大規模な戦争を起こすための機構として、この専制王制という形を繰り返し利用することになる。
 彼が最初のシュメール王朝を作った時、対抗勢力を用意しなかったために、彼の望む大規模な戦争が出現しなかった。そこで今回は、将来バビロン王朝にぶつけるための勢力をあらかじめ準備しておくことにした。メソポタミアのはるか北西、遠くトルコのアナトリア地方に都をかまえていたヒッタイト国である。バビロン王朝の強力な王権に基づいた統制のとれた軍隊に対抗できるように、彼はヒッタイトで新兵器である鉄器を開発し、隣国ミタンニから馬牽きの戦車による新戦術を取り入れた。
 しかしここで彼は、両国の力のピークをうまく同調させることができなかった。タイミングを誤ったのである。人類がより高速な交通・通信の技術を発展させ、遠方で起こったことの影響がより速く伝わるようになるまで、彼はこのタイミングの問題に悩むことになる。
 繁栄を誇ったバビロン王朝もハンムラビ王が死んでからは、意外にも速い速度で衰亡していった。エラム山地の東北、はるか彼方のイランの高原から、いくつもの山河を越えて新しい民族移動の波がメソポタミアにおしよせてきたのである。この民族カッシト族は好戦的な種族で、皮肉にも彼がヒッタイトの軍事力を強化するために西方で開発した馬を扱う技術を習い覚えていたために、急速に力をつけていた。カッシト族はメソポタミアの東北部の山地を略奪して、そこにカッシト王国をうち立てた。このほかにもメソポタミアの各地で反乱が続いて起こり、南のペルシア湾にのぞんだ地方には、シュメールの伝統を受け継いだ「海の国」の王朝が独立した。
 こうしてメソポタミアの世界は東北山岳地のカッシト王朝と、南部臨海地方の「海の国」王朝と、中央部西部のバビロン王朝の三国が互いに対立する一時期がやってくる。こういう形勢のまま約一世紀が過ぎ去った。しかし、その間にもバビロン王朝には労働人口として異民族が流入を続け、ハンムラビ王によって成し遂げられた栄光のバビロン第一王朝もしだいに衰えていった。
 彼としては、ヒッタイトが十分に軍事力を整備するまで、バビロン王朝の繁栄と軍事力を維持しておきたかったのだが、いったん進みはじめた衰亡への勢いは、彼にも押し留めることができなかった。ちょうど人間が予防を怠ったために、風邪をこじらせてしまったようなもので、彼自身の身に起こっていることでありながら、この時には彼にはどうにもできなくなっていた。あせった彼は、バビロン王朝の力がこれ以上衰える前に、ヒッタイトをバビロンに向かわせた。
 鉄の武器と戦車の機動力を持ったヒッタイトの強力な軍隊の前に国家の勢いをなくしていたバビロン軍は、なすすべもなく蹂躪された。ヒッタイト軍は暴風のようにバビロンの都に襲いかかり、荒れ狂い、破壊した。ハンムラビ王が育て上げた王朝を根こそぎ倒すと、ヒッタイトのムルシリ王の軍勢は故国のアナトリア地方に引き上げてしまった。ヒッタイトの都から千数百キロメートルも離れたバビロンの占領は、ヒッタイト軍の威力を天下に轟かせはしたが、たいした実利はともなわなかった。実はこの時、なぜバビロンを攻めたのか、ムルシリ王自身にも分からなかったのである。

彼が目覚める時 第七回

 ヒッタイト軍がバビロンから引き上げたあと支配権をにぎったのは、東北部の山岳地を根城にしているカッシト族だった。カッシト族は氏族ごとに、納税免除の広大な荘園を営んでいて、王権のことなどはあまり関心がなかった。カッシト族というのは戦いに強いというだけがとりえの、社会的にも文化的にも洗練されていない粗野な民族であった。バビロン文化の伝統を受け継ぎはしたものの、全体としては退化させたと言って良かった。
 だが、カッシト王朝は四世紀もの長い間にわたってメソポタミア地方を支配し続けた。このように粗野な民族がこの肥沃な土地を安定して支配することができたのは、彼の興味の中心がティグリス河の中流域に住む一民族、アッシリア人に移っていたためである。この頃彼は、アッシリアがやがて空前の大帝国を造り上げるための準備を着々と進めていた。
 アッシリアは剛健な軍事を重んじる民族であった。旧約聖書の中ではこの民族を常に「残忍な」と形容している。アッシリア人はまた商業民族でもあった。自分の国で取れた石材や小アジアの鉱産物をバビロンに運んでは、代わりに南の文明都市の高級品や技術などを持ち帰った。さらにまた、そうした輸入品を北方へ、西方へと持ち歩いて商売をした。
 バビロンをカッシト王朝が支配していた頃、アッシリアは南のバビロンと北西に隣り合わせているフルリ族のミタンニ王国の間で、両者のご機嫌をうかがうようにして国を維持していた。しかし、紀元前一四世紀のはじめになってヒッタイトがミタンニを滅ぼすと、束縛から開放されたアッシリアは、たちまちアッシュル、ニネヴェなどの諸都市を統一して王権をうち立てた。一方ではまた、常備の市民軍を編成して、国力の充実と共に北方に進軍し、続けて東の山地へも覇権の手を広げていった。
 こうして、アッシリアはそれから以後、王朝の五代一世紀半にわたって目覚ましい興隆期に入り、エジプト、ヒッタイト、バビロニアなどという最強国と肩を並べるようになる。代々の王たちは強力な軍隊を率いて征服を続けた。勢いに乗ったアッシリアは、紀元前一三世紀の終わりにはバビロンを攻めた。彼はこの軍事大国同士の激突に狂喜した。持てる力のすべてを解放するその疾走感に、彼はほとんど恍惚となった。その快美感に取り憑かれた彼は、争いを止める自制心を失ってしまった。次なる大戦争を起こすためには、いったん争いを収束させ、力を貯えなければならないのだが、どうにも止められなくなってしまったのである。
 アッシリアはついにバビロンを陥落させるが、地中海からペルシア湾にいたる世界を統一してアッシリア大帝国を実現するには、なお二世紀の年月が必要だった。アッシリア人は征服地は徹底的に破壊した。そして、住民たちを強制的に移住させ、反乱を起こすものには皮剥ぎ、串刺しなどの酷刑を行った。こうした激しい武断政策をとったことが、かえって征服された人々の恨みを募らせて、各地で反乱を勃発させることになったからである。これによって、きたるべき大帝国時代の到来は、ずいぶんと遅れることになった。

          『彼が目覚める時 1』了
『季刊カステラ・1998年春の号』
『季刊カステラ・1998年夏の号』
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